「小諸ふるさと遺産」を認定しました(令和2年度第2期)

 地域で大事に守り伝えられてきたもの、地域のシンボルなどその歴史的、文化的価値にかかわらず、後世に残していきたいものを「小諸ふるさと遺産」として、小諸市教育委員会が以下の通り認定いたしました。

 認定された小諸ふるさと遺産の所有者(又は管理者)には、小諸ふるさと遺産認定プレートを交付するほか、『小諸ふるさと遺産集』として冊子にまとめ、教育委員会の文化財・生涯学習課の窓口で配布します。

なお、本事業は、長野県地域発元気づくり支援金を活用しています。

 

令和2年第2期認定遺産

認定

番号

ふるさと遺産の名称 説明 地区
No.2012 潜龍の松(せんりゅうのまつ)

海応院(かいおういん)の境内にある松は、その枝ぶりから「潜龍の松」と呼ばれています。

海応院は、慶安の頃(1648~1652)に五軒町の東端から現在地へ移りました。かつて海応院が五軒町の東端にあったことは、1624年~1647年の間に描かれた、小諸城下町絵図からわかっています。移転後、堂宇は2度の火災に遭い、その度に再建されていますが、松は生き残りました。樹齢は、推定370年以上です。

No.2013

南ヶ原開拓記念碑

南ヶ原記念碑は、昭和55年(1980)に当時の区民により建立された碑です。

第2次世界大戦後には、食糧不足や海外からの復員、引き揚げ者の就業などの対策として、開拓が進められました。

この碑は、南ヶ原において入植を始めた昭和23年(1948)から30余年の中で、水利の確保をはじめとした様々な苦境や苦難を越えて地区の基礎ができたことへの思いや、これからの地区の繁栄への願いが込められており、南ヶ原地区の歴史を未来へ伝えるモニュメントとなっています。

北大井

No.2014

布引観音への道標(みちしるべ)

布引山釈尊寺(しゃくそんじ、通称:布引観音)への道標です。

布引観音には、観音菩薩が牛に化けて信心のない老婆を善光寺へ導き改心させた、「牛に引かれて善光寺まいり」という言い伝えがあります。

新町区にある道標は、北国街道から布引観音へ向かう分かれ道にあります。また、布引観音周辺の川辺地区にも古くからの道標が多数あります。

善光寺信仰の広がりとともに、江戸時代以降布引観音へのお参りが盛んになったことがうかがえます。

西

 

No.2015

真楽寺への道標(みちしるべ)

今は、平原寺裏地籍と加増荒堀地籍にある道標で、それぞれに「真楽寺江従是(これより)三拾丁」(真楽寺へはここから約3.3キロメートル)、「真楽寺江従是一里拾町」(真楽寺へはここから約5キロメートル)と刻まれており、真楽寺(御代田町塩野)までの距離が示されています。

このほかにも佐久市塩名田や御代田町三ツ谷にも真楽寺への道標があることから、江戸時代後期には、諸国から真楽寺へ講(こう)を組んで参詣にくる人々がいたことがうかがえます。

北大井

 

南大井

No.2016 薬師菱野温泉への道標(みちしるべ)

菱野区内には、古くから遠方より湯治で菱野温泉を訪れた人がいたため、「ゆ道」「温泉薬師」「やくしゆみち」などの案内を石に刻んだ道標が五つ残っています。

ほかに古道の「関東道」、群馬へつながる「大笹道(おおざさみち)」、東御市祢津(ねつ)へつながる「祢津道」などの案内を刻んだ道標もあります。

No.2017

女堰(おんなせぎ)

女堰は、江戸時代以前から旧大里村(現在の菱野区、後平区、滝原区、西原区、諸区)で利用される大切な用水路でした。しかし、老朽化したため大雨の度に水害に悩まされていました。

昭和27年(1952)に山麓(さんろく)が、念願かなって国から大里村に払い下げられたのを機に、翌年に高峯土地改良区を設立し、巨額を投じて7年にも及ぶ改修を行いました。

延長4キロメートルにも及ぶこの用水路は、大地が育む大切な用水路として小諸市高峯土地改良区が管理しています。

No.2018

小諸市動物園

隈部親信(くまべちかのぶ)小諸町長が懐古園の公園化を発案、日本の「公園の父」と呼ばれる本多清六博士が設計して、大正15年(1926)に小諸公園が設立されました。

動物園は、小諸公園の目玉として設けられ、県内では最古、国内では5番目に古い歴史を持っています。

当初は、子どもの遊び場として籾倉台(もみぐらだい)や谷へ鹿や猿、孔雀、ガチョウなどを展示しました。

また、昭和2年(1927)には、本丸に通じるもみじ谷に白鶴橋(しらつるばし)が架けられ、多くの賑わいをみせました。現在も多くの子どもたちが訪れています。

西

No.2019 小諸の文化を支えてきた市立小諸図書館

市立小諸図書館は、小諸義塾に明治27年(1894)に設置された図書館を基(もと)とし、小諸青年団の設置運動により大正3年(1914)に開館した図書館です。

大正11年(1922)には財団法人となり、5000冊の図書を備えました。昭和15年(1940)に運営が旧小諸町に移り、太平洋戦争の頃に一時休館したものの、戦後すぐに再開しました。

平成16年(2004)に建物の老朽化による改築が検討され、平成20年(2008)に新図書館準備室が設置されました。その後、計画の変更なども含め20回以上のワークショップを重ね、「みんなの図書館」として平成27年(2015)に現在の場所へ新たに開館しました。

1871年に出版された洋書や財団法人小諸図書館の頃からの蔵書など、小諸の歴史を今に伝えています。

No,2020

大久保橋架橋の寄付金記念碑

この記念碑は、明治23年(1890)に架けられた大久保橋建設費の寄付金の記念碑です。

大久保橋は、江戸時代に諏訪山御林(すわやまおはやし)への往来のため大久保村に架けられました。はじめは土橋で千曲川の洪水により度々流失し、その度に船で通行していました。

大久保村付近の住民から広く寄付を募り、明治23年12月に建設費4036円(現在の価格で約898万円)を投じて長さ約116メートル・幅2.7メートルの鉄線吊橋(てっせんつりばし)が架けられました。

以後、大久保橋は、長野県によって2度架け替えられましたが、記念碑は今も大久保側の橋のたもとにあります。

 

No.2021 小諸城下町の戌の満水(いぬのまんすい)絵図

1742年(寛保2年戌年)に起きた大水害「戌の満水」の際に、松井川・中沢川の氾濫(はんらん)により小諸城下町の本町、六供・田町がうけた壊滅(かいめつ)的な被害を描写しています。土石流が、小諸城を襲った様子も描写しています。

この絵図は、「戌の満水」の歴史を伝える貴重な絵図として各地の展示会で展示されたり、多くの書籍に写真が掲載されています。

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No.2022 千曲川流域の戌の満水(いぬのまんすい)絵図

1742年(寛保2年戌年)に、千曲川流域で起きた大水害「戌の満水」の状況を伝える絵図で、千曲川やその支流、川沿いの道や集落を丁寧に描写しています。

千曲川左岸の袴腰(はかまごし)山から千曲川に向けて描かれた灰色の濁流が勢いよく下る様子(風早大崩れ・かざはやおおくずれ)が目を引きますが、幸いにも土石流は集落を外れており人的被害はありませんでした。

この絵図の裏には、災害の状況が詳細に記されています。

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No.2023 天明3年浅間山夜分(やぶん)大焼(おおやけ)之図

「浅間山夜分大焼之図」は、多大な被害を及ぼした天明3年(1783)の浅間山の大噴火(だいふんか)の様子をよく伝えるものとして、多くの書籍に写真が載っています。

この噴火は、「天明の浅間焼け」といわれ約3か月もの間噴火を繰り返しました。特に最後の数日間は激しく噴火し、噴石や火山灰、溶岩流などの流失とともに、巨大な黒い噴煙が空高く立ち上り、雷光雷鳴がすさまじかったと記されています。(『天明雑変記』)

噴火の被害としては、特に浅間山北麓(ほくろく)の群馬県側が甚大(じんだい)で、土石なだれが発生した鎌原(かんばら)村やそれが流れ込んだ吾妻(あがつま)川・利根川流域と合せて1624人もの死者を出しました。(『群馬県史』)

また、噴火の様子を示すこの図以外にも、噴石が降り注ぐ様や泥流が流れる様を示す図も残されています。

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No.2024

純水館(じゅんすいかん)記念碑と工女の墓

純水館記念碑は、小諸の製糸業を支えた製糸場「純水館」を記念して、関係者により平成10年(1998)に建立された碑です。

明治7年(1872)年に操業(そうぎょう)を開始した県内初の民営製糸場「丸萬(まるまん)製糸場」により大規模な製糸場として、純水館は明治23年(1890)小山久左衛門によって、釜数100、従業員数83人という規模で作られました。その後、大正末から昭和初めにかけて、小諸の製糸場は全盛期を迎え、純水館でも、昭和2年(1927)には釜数1900余(あまり)、従業員2000人余を数える程、事業規模が拡大されました。

また、全盛期には、たくさんの工女が製糸場で働いていました。純水館に出稼ぎで来た工女の中には、この地で亡くなり、何らかの事情で帰郷できない者もいましたが、工場跡地を望むようにお墓が建てられ、丁重に埋葬されています。

化学繊維の登場により製糸場は脇役となり、純水館も昭和57年(1982)に生産をやめ、92年の歴史に幕を閉じました。

 

No.2025 内堀功の作品群

内堀功は、大正6年(1917)小沼村乗瀬(今の乗瀬区)に生まれた彫刻家です。

上田市の農民美術研究所で彫刻を学び、上京後の昭和20年(1945)には日本芸術院会員の吉田三郎(吉田の死後は、同会員の昼間弘)の教えを受けました。

昭和20年、日本美術展覧会(日展)に出展した「猿」が初入選し、昭和23年には白日会員となります。昭和47年(1972)に「黒耀(こくよう)」、昭和49年に「龍膽(りゅうどう)」を日展へ出品し、特選を受賞しました。後にアトリエを小諸へ移しましたが、昭和53年(1978)61歳の生涯を閉じました。

その作風は、写実に徹した正統派で、豊かな量感の人体を表現しています。代表作のブロンズ像が死後弟子から小諸市へ寄贈され、小諸駅前ロータリーをはじめとする市内各所に置かれています。

市内各所

No.2026 清水芳仙(しみずほうせん)の「山国の女」

清水芳仙(明治10年〔1877〕生まれ、川辺村宮沢出身)作の裸婦(らふ)の木造彫刻です。高さ約170センチメートルの大きな彫刻で、写実性の高い作品です。

大正6年(1917)に当時最も注目を集める展覧会であった第11回文部省美術展覧会(文展)に入選しました。作品は、出身地の川辺村の学校(今の千曲小学校)に寄贈され、現在でも玄関で子どもたちを迎えています。

清水芳仙は、日本の近代彫刻の導き手の一人です。農事の傍ら(かたわら)彫刻に取り組み、「霧窪(きりくぼ)の女」(木造彫刻、文展入選)や摂政宮(せっしょうのみや・後の昭和天皇)が小諸懐古園行啓時に御台覧になった「小諸城址・六百分の一」・「浅間山」模型(浅間焼石製、徴古館に展示)などの作品を展示しました。若き日の画家白鳥映雪に彫刻の指導も行っています。

No.2027 チェリーパークラインの御衣黄(ぎょいこう)

チェリーパークライン入口の標高1,000m付近には、珍しい緑の桜「御衣黄」が植えられており、桜の見頃の5月上旬には多くの花見客が訪れます。

近くのJRのバス停も「御衣黄の里」と名付けられています。

御衣黄は、江戸時代に京都の仁和寺で栽培されたのが始まりと言われているサトザクラの一種で、開花直後は緑色が強いが、次第に白や紅が入り色の変化を楽しめます。

No.2028 不動の滝

菱野温泉近くの不動の滝は、落差が約15メートル。厳寒期には水しぶきが凍って10メートルほどの氷柱(つらら)となり、小諸眺望100選にも選ばれています。

この滝は、冬だけでなく夏は深緑と涼しさ、秋は滝とのコントラストを楽しめる紅葉が、訪れた人の心を癒(いや)すパワースポットとなっています。また、狩猟愛好家には、猟場としても知られています。

滝には、名前の元となった不動明王が祀られています。

No.2029 諸の七不思議(伝説)

諸区は、東山道清水駅(とうさんどうしみずのうまや)が存在した古くからの集落です。そこに七つの不思議な伝説が伝えられていますが、室町時代以前から言い伝えられていたと考えられています。

七つの伝説は「鳴海橋(なるみばし)に駒の爪」・「黄金石(こがねいし)」・「名伝(なでん)の桜」・「愛染(あいそめ)川」・「二本竹」・「山鳥すすき」・「星見の井戸」です。

そのひとつ「愛染川」の川の水は、安産の薬になると布や紙に含ませて持ち帰るようになったと伝えられています。

No.2030 句集『ぬかづか集』

『ぬかづか集』は、江戸時代後期の俳人・小山魯恭(こやまろきょう、1776~1833)によって編集された句集です。

与良町の資産家の魯恭は、景色が良い糠塚山(ぬかづかやま)に庵を建て、多くの文人を招き、彼らに詩歌を作らせました。約180人の文人の作品を集め、文政8年(1825)に『ぬかづか集』として出版しました。魯恭と小林一茶の連句や谷文晁(たにぶんちょう)の挿絵などが載っており、魯恭の広い交友関係がうかがえます。(矢羽勝幸『佐久の俳句史』参照)

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No.2031 『信濃商業新報』

『信濃商業新報』は、明治45年(1912)から大正3年(1913)まで旧小諸町の塩川勤が中心となって発行した新聞です。

明治時代に鉄道が整備され、商業が発展していく中で、「公平無私・不偏不党(ふへんふとう)」を掲げて小諸のさらなる商業発展に貢献するために発行されました。「商業」とついていますが、商業経済だけでなく、小諸を去った島崎藤村の随筆や歌人の若山牧水が選んだ短歌なども載っており、地方新聞として格調が高いものでした。

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No,2032 津嶋神社の疫病(えきびょう)退散の祭典

芝生田区(滋野甲地籍)において、明治33年(1900)に発生したハヤリ病を収めるために、明治34年から集落の人々が土地を提供したり、私財を出し合って、祠(ほこら)を拠(よ)り所とした祭典を行ってきました。

毎年祭典を行うため集落内で当番制を執り、祭事に係る費用についても集落全員で拠出し、今日まで続けられています。あわせて毎年の祭典に関わる貴重な記録も今日まで伝えられています。

西小諸

No,2033 大和屋呉服店ののれん

県外にも名の知られた呉服問屋であった大和屋呉服店の店先にかけられていたのれんです。

のれんには、「現金正札(しょうふだ)、懸直(かけね)なし、大和屋」と、「安く仕入れて安く売る」という小諸商人の気風が書かれています。

明治時代の大和屋呉服店では、多くの丁稚(でっち、見習い店員)をかかえ、「小諸の大和屋で丁稚を仕上げてきた」というのが県下の商人のステイタスになったといわれており、多い時には丁稚やお店の使用人が50人も暮らしたと言います。そして、お店の周辺には商品や食料品、道具をしまっておく蔵が18もあったそうです。

また、島崎藤村の随筆『千曲川のスケッチ』には大和屋の別荘に招かれた話が出ています。

大和屋は、昭和63年(1988)に店を閉じました。

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No.2034 山岳信仰の役行者(えんのぎょうじゃ)と不動明王

与良区の信開講社(しんかいこうしゃ)には、山岳信仰を伝える貴重な像「役行者」と「不動明王」が祀(まつ)られており、大切に受け継がれてきました。

役行者とは、7世紀頃に悟りを開くために山へこもり厳しい修行を行った山岳修行者(修験者、しゅげんしゃ)です。

信開講社の皆さんは、これらの像を大切に守るとともに、講を組んで毎年御嶽山を参拝してきました。

東南部

No.2035 藤村の井戸と馬場裏通り

大手区には、作家の島崎藤村(1893~1943)が小諸に住んでいた頃(1899~1905)に使っていたといわれる井戸があります。長野県が選定した信州の名水・水辺百選(1991年度~1993年度)のひとつでもあります。

藤村はこの近くに住んでいたので、藤村の夫人が毎日井戸に水を汲みに来ていたそうです。その頃は縄にくくった桶で水を汲みあげるつるべ式井戸でしたが、現在はポンプ式に変わっています。

馬場裏通りは、藤村の井戸から国道141号線に通じる小路です。江戸時代に馬場(武士の馬術の訓練場)があったことから、そう呼ばれています。本町区との間には、武家地と町人地の境となる石垣が残っています。

藤村の随筆『千曲川のスケッチ』には、この道を通ってなじみの小料理屋(揚羽屋、あげはや)に通った様子が書かれています。

この周辺は、街なみ環境整備計画の一環で2000年~2003年にかけて修景工事が実施され、現在の風景に整備されました。

No.2036 高峰高原で眺める星空

浅間連峰の北側にある高峰高原は、標高2,000メートルに位置しています。

晴天率が高く、標高の高さから市街地の明かりも届かないため、夜には満天の星空が広がります。長野県内でも有数の星空スポットで、夏には天体観測会が開催され、多くの天体観測愛好家で賑わいます。

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No.2037 菱野の棚田の風景

菱野区には、山麓(さんろく)の山ひだに沿って棚田が広がっています。区内の宇坪入(うつぼいり)にある棚田は、農林水産省の「日本の棚田百選」や長野県の「ふるさと信州風景100選」に選ばれています。

また、北東方向には、浅間山を望むことができます。浅間サンライン菱野西窪交差点付近では、棚田と浅間山の調和した風景から、小諸眺望100選にも選ばれています。

この風景が永く続くことを願っています。

No.2038 おなっとう

おなっとうは、昔から佐久地域に伝わる郷土料理で、お茶うけとして食べられていました。

温かいご飯(又はもち米)に麹菌(こうじきん)を加えて5時間ほど保温し、黒豆やささげ豆の甘煮を加えて作ります。

昔は、各家庭で味噌を作っていたので、材料の麹菌も自前で作り、味噌だけでなく、おなっとうも作っていたそうです。

少なくはなりましたが、今でも作って楽しんでいる人がいます。

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No.2039 平原駅

しなの鉄道平原駅は、昭和27年(1952)に南大井村(今の平原区)に開業した駅です。

大正10年(1921)、日本国有鉄道信越本線(今のしなの鉄道)平原に信号所が設置されて以来、南大井村の人々は、停車場(駅)の誘致(ゆうち)運動を続けました。昭和23年(1948)からは、北大井村も誘致運動に加わりました。

平原区では、昭和26年(1951)に683人の署名による請願書を南大井村議会へ提出し、採択されました。駅誘致のため、南大井村が150万円・北大井村が50万円支出し、駅舎やホームを整備しました。

運営がJRを経てしなの鉄道に移った今でも、周辺住民の重要な交通手段となっています。

南大井

No2040 小諸尋常高等小学校編『浅間山』

『浅間山』は、浅間山研究会が明治44年(1911)に出版した本です。

浅間山研究会は、明治40年(1907)に小諸尋常高等小学校校長の佐藤寅太郎(さとうとらたろう)を会長として、小諸尋常高等小学校職員により結成され、模型製作部・動植物鉱部・山誌編纂部の各委員で構成されました。

この本は、収集した浅間山に関する多数の資料をもとに、山岳研究や浅間山の知名度向上を目的として、浅間山の地誌や歴史文化が記された貴重な本です。浅間山研究会の活動は、資料の散逸(さんいつ、失われること)を防ぎました。

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No.2041 武田信繁(たけだのぶしげ)の墓標(ぼひょう)

大久保区(南下平地籍)に武田典厩(てんきゅう)信繁(武田信玄の弟)の首塚と言われている墓標があります。

信繁は、永禄4年(1561)9月の川中島合戦において戦死し、遺骸(いがい)は典厩寺境内に埋葬されたそうです。

江戸時代末期に書かれた『嘉永雑記(かえいざっき)』という古記録には、合戦で戦死した際上杉軍に首が奪われるのを嫌い、味方が持ち帰り今の場所に埋葬したのであろう、と書かれています。

墓標は、地域の人々に今も大切にされています。

 

小諸ふるさと遺産No2012潜龍の松

No.2012潜龍の松

小諸ふるさと遺産No.2026内堀功の作品群のうち、龍膽

No.2026内堀功の作品群のうち、龍膽

(小諸市文化センター)

小諸ふるさと遺産ナンバー2034大和屋呉服店ののれん

No2034大和屋呉服店ののれん

これまでに認定した小諸ふるさと遺産は、下記リンクをご覧ください。

この記事に関するお問い合わせ先

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〒384-8501
長野県小諸市相生町3丁目3番3号
電話:0267-22-1700 ファックス:0267-23-8857
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更新日:2020年11月27日