令和元年度第1期「小諸ふるさと遺産」を認定しました

 地域で大事に守り伝えられてきたもの、地域のシンボルなどその歴史的、文化的価値にかかわらず、後世に残していきたいものを「小諸ふるさと遺産」として、小諸市教育委員会が以下の通り認定いたしました。

 認定された小諸ふるさと遺産の所有者には、小諸ふるさと遺産認定プレートを交付するほか、『小諸ふるさと遺産集』として冊子にまとめ、公共施設や観光案内所の窓口で配布します。

令和元年年度第1期認定遺産

認定

番号

ふるさと遺産の名称

認定内容

地区

No.1901

正眼院山門

『黒門』

この門は、小諸城の本丸入口にあった一ノ門で、通称「黒門」と呼ばれています。

瓦葺きの薬医門で、小諸城の城門にふさわしい重厚な建造物です。

明治5年(1872年)、入札払下げにより正眼院に移築されました。

北大井

No.1902

雷電為右衛門の『袂鐘』

雷電(1767年~1825年)は、生家の菩提寺が養蓮寺だったことから、帰郷の折にしばしば養蓮寺へ立ち寄りました。

この鐘は、大関昇進の報告と先祖の菩提のために雷電が寄進したもので、「江戸から袂に入れて持ってきた」と語った逸話から「袂鐘」と呼ばれています。

鐘の作者は、江戸神田の住人鋳物師長兵衛で、四本柱や土俵が表現されています。また、南無阿弥陀仏のほか、江戸後期を代表する狂歌師の蜀山人の歌も記されています。

西部

No.1903

聖徳太子立像

聖徳太子(厩戸王)は、蘇我馬子らと遣隋使の派遣、冠位十二階・憲法十七条の制定などを行い、日本の仏教の基礎も築きました。

また、聖徳太子は民間信仰「太子信仰」の対象とされ、大工などの職人による講がつくられました。

養蓮寺境内の太子堂に収められているこの立像は、聖徳太子の幼少期の姿を表したものとされています。

作者はわかりませんが、文政12年(1829年)に公家 から養蓮寺へ寄贈されました。

西部

No.1904

与良の大日堂

大日堂は、大日如来を祀るお堂です。

蛇堀川の近くの十王堂に祀られていた閻魔大王も安置されています。

お堂は信仰の場所として、また地域の集会所として大切にされてきました。

「大日会」の皆さんをはじめとする地域の方々に、今も利用されています。

東南部

No.1905

数奇な運命をたどった馬頭観世音

参勤交代で使役した馬を供養するために、小諸城内の寿仏曲輪に建てられたと伝えられています。

廃城後、与良の蛇堀川にかかる橋の材料に転用されましたが、その後、地元の人達の手によって現在の場所に移され、今日まで大切に祀られています。

東南部

No.1906

小諸駅の『煉瓦造油庫』

小諸駅に残る明治期の建物で、客車の室内灯(電灯が普及する以前はランプが用いられた)や信号灯などに用いる油類を保管していました。

煉瓦造にした理由は耐火性にあり、壁面の積み方はイギリス積となっています。

旧信越本線の長野県内区間で残っているのは、小諸駅だけです。

中部

No.1907

わら馬引き

わら馬引きは、地域ごとに様々な形で行われる道祖神祭の一つで、2月の初午の日の伝統行事です。

お供え餅やおはぎ等をのせたわら馬を、木製の台車で近くの道祖神まで子どもが引いていきます。

お供えものは家族とともに食べ、引いたわら馬は屋根の上に上げて、子どもの無病息災、家内安全、養蚕や農作物の豊作を祈ります。

中部

No.1908

青い目の人形メアリー

親日家であったアメリカのシドニー・ギューリック博士が、子どもたちの国際交流によって平和と友情の精神が育まれることを願って、昭和2年(1927年)に日本の小学校に「フレンドシップ・ドール」を贈りました。

長野県に贈られた286体のうち20体程が現存し、小諸市には東小学校に1体だけ残っています。

戦争による反米意識から、その多くが壊されましたが、これは奇跡的に残ったものです。

北大井

No.1909

与良えびす講

与良蛭子神社では、毎年1月19~20日に「初えびす」が、11月19~20日に「えびす講」が行われます。

これは、えびす様が正月明けに旅に出て、秋には福を持ち帰ってくるという信仰に根差したものです。

中に種銭が入った「福升」が販売され、町の人々の楽しみとなったことが、今日まで長く続いた理由です。

東南部

No.1910

北国街道与良館

北国街道与良館は、江戸時代末期に建てられた商家「松屋」で、江戸時代は漆器屋を、戦後は家具問屋を営んでいました。

現在の建物は、2006年に改修したものです。

奥行きのある敷地に、母屋から中庭、蔵、離れが並び、街道沿いの旧家の屋敷配置の様子がよくわかります。

現在は、地元区民の活動やまちづくりの拠点として利用されています

東南部

No.1911

看板建築

看板建築は、建物の正面だけを銅版や色モルタル、タイル、スレートなどで装飾した店舗建築の一形式です。

大正12年(1923年)に発生した関東大震災の復興過程で誕生し、大正から昭和にかけて全国各地の商店街に広がりました。

昭和のノスタルジーを感じさせる建物です。

市内では、与良町や荒町、相生町などで見ることができます。

東部

東南部

中部

No.1912

小諸唱歌

明治30年頃には、「信濃国」や「川中島」など、郷土の歴史や地理を歌いこんだ郷土の歌が各地で作られました。

小諸唱歌は、明治36年(1903年)に作られました。

作詞は池田芦舟と星野香山、作曲は小諸学校唱歌専科の長尾亥三太です。

63番まで続く長編の歌でしたが、大正15年(1926年)に118番まで追加されました。

小諸町を中心に名所、旧跡、自然、産物などが歌いこまれており、明治中期から大正末期の小諸の様子を知ることができる貴重な歌です。

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No.1913

野馬取水源地

市内で最も古い近代水道の水源地です。

大正10年(1921年)に小諸町消防組合などから請願書が提出され、水道敷設が決定されました。

それから3年後の大正13年(1924年)に給水を開始しました。現在の取水量は1日に約4,100立方メートルです。

大正13年竣工記念帖には、「自然の噴泉は、水質の善良なることは濾過水に優るものあり、然も夏は静冷にして飲用の快を感し、冬は温和にして給水管の凍結を免れ、使用上予期以上の好果を得たるなり。」と記されています。

大里

No.1914

坂の上配水池

野馬取水源地と同時に作られた、市内で最も古い近代水道の配水施設で、大正13年(1924年)に竣工しました。

貯水量は約1,400立方メートルで、壁面には洋風の石積みで装飾が施されています。

現在も、野馬取水源や郷土水源などの水を貯め、市街地を中心に水を供給しています。

東部

No.1915

小諸義塾

教育者であり、キリスト教牧師でもある木村熊二が、明治26年(1893年)に小山太郎ら小諸の青年の熱意ある要請に応えて設立した私塾です。

小諸義塾は、自主自立した人物の養成を教育の主眼と位置づけ、木村熊二のかつての教え子である島崎藤村らを教師に迎えて、質の高い中等教育を行いました。

西部
No.1916 小諸駅1番線ホームに使われた『古いレール』

明治21年(1888年)に直江津線(直江津~軽井沢間、後の信越線)が開通し、小諸駅が出来ました。

黎明期の日本の鉄道は海外から輸入されたレールを使用しており、現在、その何本かが小諸駅の1番線ホームの屋根を支える柱に再利用されています。

その1つには、「CAMMELL S. TOUGHENED STEEL.W.1888.SEC1 3 1 I.R.J」という刻印があり、1888年に製造されたイギリス・キャンメル社製のレールであることがわかります。

中部
煉瓦造油庫

No.1906 煉瓦造油庫

No.1908 青い目の人形 メアリー
この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会 文化財・生涯学習課

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長野県小諸市相生町3丁目3番3号
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更新日:2020年09月03日