小諸義塾塾長 木村熊二

生い立ちと信州への移住まで

木村熊二

木村熊二は、弘化2年(1845年)2月に出石藩の儒臣(出石藩主に仕えた儒学者)である桜井一太郎の次男として京都に生まれた。8歳で江戸に出て叔父桜井三郎のもとに身を寄せたが、翌年叔父の三郎が死去したため、10歳の時に一太郎の弟子であった木村琶山の養子となる。その後経書を学び、幕府の徒目付となり、21歳の時に田口鎧子と結婚。明治元年に長男祐吉誕生。戊辰戦争では勝海舟の下で活躍した。

 明治3年、友人の外山正一の勧めで渡米。ミシガン州ポートランドに位置するホープカレッジに学びその後ニュージャージー州のニューブランズウィク神学校に進み、牧師の資格を得て、明治15年に帰国した。 明治18年の秋に、明治女学院を創立した。 明治24年に高輪台町教会の牧師を辞職し、翌年キリスト教の伝道のため信州南佐久郡野沢村に移住した。

小諸義塾開校とその後

明治26年、向上心に燃えた小諸町の青年小山太郎が、熊二に学校設立について協力を要請。熊二の尽力と指導のもと、開校の準備は進み、同年11月には、小諸市耳取町の佐藤知敬方において「小諸義塾」開校式が行われ、塾長となる。

明治29年には、耳取町に校舎が建設され、明治32年には長野県知事の認可により、それまでの私塾が改組されて中学教育を行うようになった。同年4月には木村熊二が島崎藤村を招請。明治38年に小説家への道を歩みはじめるため藤村が上京するまで、6年間英語と国語の教鞭をふるった。

小諸義塾は財政難その他の事情により存廃問題が発生し、翌明治39年、設立から13年にして廃校となり、熊二も小諸を去り長野市へ移住する。その後各地の教会や学校で説教を続けたが、大正6年に帰京。昭和2年、83歳でその生涯を終えた。

地域産業の発展に貢献

熊二は義塾の経営をはじめ、教育に専念するかたわら、懐古園内への植樹や果物(特に桃)の栽培や缶詰製造事業の奨励し、地域産業の発展にも貢献した。

明治31年には、井出静らと中棚鉱泉を設立し、その近くに書斎として「水明楼」を建てた。当時の士族屋敷を移築したもので、1、2階合わせて30坪あまりの木々に囲まれた草ぶき屋根の家で、現在も見学が可能です。

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更新日:2022年03月07日