第21回小諸・藤村文学賞 中校生の部最優秀賞

雨が降るまで

駿台甲府学園駿台甲府中学校3年 大石宏太

 たぶん、そろそろ雨が降ってくるはずだ。今は夏の夕方で、吹き込んでくる風が急に冷たくなったし、空もなんとなく暗くなってきたから。何より、雨のにおいがする。土とアスファルトがまじったような、ちょっとかび臭いような感じもする、懐かしいにおいが。夏休みのにおいだな、と思いながら部屋の窓を閉めて、クーラーのスイッチを入れた。蝉の声と雨のにおいと一緒に部屋から夏が閉め出された。無機質な涼しさが広がる。そういえばこの雨のにおいの正体ってなんだろう、と思ってインターネットを開いて検索してみたら、よく知らない化学物質の名前とかが出てきて、それを見て僕はなぜだかとても無粋なことをしてしまった気がした。すぐにタブを閉じて、パソコンの電源を落とした。まだ雨は降り始めない。

 においと記憶というのはすごく深いところで結びついていると思う。色とか、音とかで思い出すものもあるけれど、においで思い出すものはそういうものたちよりもっと遠い過去にあったことみたいな感じがする。人間の得る情報の八割は視覚から、次点で聴覚からだという話を聞いたことがあるから、きっと色や音は遠さを感じるには記憶と直接関係しすぎているのだと思う。においくらいのかすかな刺激から思い出すくらいの記憶が、懐かしがるのにはちょうどいいのだ。僕は懐かしがるというのが嫌いだけど。

 僕がにおいから思い出すもの。例えば、雨のにおいで夏休みだと感じるのは小学生のとき、近所の神社で虫採りをした帰りに降られた夕立のせいだ。僕はあの雨上がりに、初めて虹を見た。実際の虹は、思っていたよりずっとうっすらと儚げだった。それから、鉛筆削りの削りかすのにおいは、小学一年生の春を思い出させる。初めての自分の机、鉛筆が五本しか入らないのに妙に大きい黒くて四角い筆箱、黄色い帽子とピンク色のりぼん。卵の雑炊のにおいは、風邪で寝込んだ記憶。咳が出て苦しかった。マキロンのにおいは、サッカーの試合で転んだ記憶。他にもたくさん、いろいろ。

 こうやって書いてみるとちょっと枕草子っぽいな、とか思ったけど千二百年前からなめげなり、とかなのめなり、とか文句と罵倒の声が聞こえてきそうだからやめておく。清少納言って、絶対怒らせたくないタイプだし。すさまじきもの、なんて言って書き留められたりしたら、もう。

 清少納言ごっこをしながら気づいたのだけれど、僕がにおいから思い出す記憶、つまり懐かしい記憶というのは、大抵小学校のころのものか、それより前のものだ。最近だってにおいを伴った体験はしている。家族で出かけた群馬の山の清涼感でいっぱいのにおいとか、文化祭のダンスの練習のときの汗と制汗剤のまじった教室と廊下のにおいとか。でもそれらはまだ、僕の中で懐かしさを呼ぶような記憶にはなっていない。

 そもそも懐かしいって何なのかな、と思った。国語辞書を引いてみたら、「昔のことが思い出されて、心が惹かれる状態」「久しぶりに見たり会ったりして、昔のことが思い出される状態」のことを懐かしい、というみたいだ。でも僕が懐かしいという言葉を説明するなら、それは過去の自分との決別だ。懐かしさを感じるには、今と過去の間に何かしらの変化や区切りがないといけない。そして、変化した僕はそのころ見たものや思ったことを、正確に全部思い出すことはできない。卵の雑炊をつくってもらったときの風邪の苦しさも、学校を休めるちょっとした嬉しさも、サッカーの試合中に怪我をして、コートの隅で一人マキロンを傷口に塗った悔しさも、今ぼんやりと覚えているのとは少しずつ、でも絶対に違うものだったのだ。忘れてしまうというのは、すごくさみしいことだ。変化して、ほかの感じ方をすることができるようになったぶん、昔の、もしかしたら未熟と言えるような感じ方はできなくなるのだ。そして、きっとそういうのを成長という。何かを得るばかりが成長ではない。そのことに対するぼんやりとした欠失感のようなものを内包して思い出した記憶が、懐かしいという言葉になる。

 たぶん僕は、全部覚えていたいのだ。懐かしさの中のさみしい部分が嫌いで、苦手だから変わりたくない。今いるところのことを懐かしいと思ってしまったら、それが全部過去になってしまいそうで怖い。それで、今いる場所での懐かしいと思う記憶が少ないのだろう。

 でも、ちゃんと変わらなければならないと思う。何かを得るばかりが成長ではないとしても、いつまでも中学生のままでいるわけにはいかない。僕は変わって、高校生とか大学生とか、大人とかになるのだ。だから、懐かしさを怖がっている場合ではない。いつでも懐かしさに負けない今をつくらなくてはいけないし、つくりたいと思う。たとえふっと香った何かが強烈に懐かしさを巻き起こしたとしても、それがきらきらした、素敵なものであるように。

 ガラガラと雷が鳴り、ひゅるん、と風が建物の間を通り抜ける音が聞こえる。外を見ると、もう雨が降り出していた。懐かしさに負けない第一歩、冷房を切って、窓を開ける。

 ちょっと切ないけど悪くない、夏休みのにおいが部屋に吹き込んできた。

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平成27年7月8日

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更新日:2019年03月28日