第20回小諸・藤村文学賞 一般の部最優秀賞
ひばり
柴野裕治
「僕らの住むまちには、世界一の原発があります」
修学旅行で宿泊先の歓迎に応え、級長が学校を紹介した時の言葉だ。おかげで「ああ、柏崎の」と先方はすぐにピンときた様子であった。七つある原子炉のすべてが稼働すると、柏崎刈羽原子力発電所の発電量が世界最大となることは、自分たちの住むところを「海水浴のまち」「魚のおいしいまち」と言うよりもよほど有名で効果的だった。
一番近くの原子炉まで千メートルあるかどうか。公園よりも原子炉の方が近くにあるような、私はそんな原発のあるまちに育った。荒浜村という名の通り、海以外にはもともと何も無く荒涼としていたこの漁師町も、今ではいくつもある鉄塔の電飾が赤や白に光り、夜には辺りを煌々と照らして、さながら高層ビル群のそばに住んでいるかのような賑やかさだ。小学生の頃、このまばゆい光は殺風景なまちの住民を楽しませるための、粋な誰かの心憎い演出だと信じていた私は、いつか無粋な先生から「あれは低空の飛行機が送電線にぶつからないように合図を送っているんだ」とタネ明かしをされた時には、なにやら期待を裏切られたような、妙にがっかりとした気持ちになったものである。
荒浜漁港から椎谷岬までは、距離にして約十五キロ余り。原発が出来る前、我が家ではそれを結ぶ一切の撓みのない海岸線を「海の道」と呼んでいた。幼かった私は、その海の道をエアコンすらついていない父のブルーバードに揺られながら、窓を全開にして走るのが好きだった。さえぎるものは何もなく、道路からたやすく水平線が見える。あるとすれば、風よけの低い竹垣が気休め程度に並んで立っているだけだった。椎谷岬に向かう道中には、右手に低い雑草の生い茂った丘陵地、左手には竹垣の向こうに数十メートルはあろうかという砂浜、そして青い日本海、風に乗り磯のにおいが飛び込んでくる。たまにある漁師小屋の周りには手漕ぎボートが放置され、名も知らぬ島から椰子の実ならぬ様々な形の流木が押し寄せ、半分砂に埋まった廃タイヤの上にはカモメが羽根を休めている。晴れた日にはテトラポットの向こうに佐渡島が良く見えた。この辺りの子どもたちは皆、どこまでも続くその景色を眺めて海の広さを知った。
その頃、休日にはいつも暇を持て余していた兄と私は、同じく無聊(ぶりょう)をかこつ父に頻繁にドライブをせがんだ。父のそれと言えば、決まって隣町の母の実家に顔を出して世間話をし、大型スーパーで夕飯の買い物をした後、あの海の道を通って帰途に着くというほんの子どもだまし程度のものだったが、娯楽の少なかった当時の私たちにとっては、遊園地のコーヒーカップに劣らず魅力的だった。梅雨の訪れを前に良く晴れ渡ったその日も、カップの運転手のルートは想定通りだったが、椎谷岬を望み、クライマックスの海の道を半分くらい通過した辺りで珍しく車をとめた父は、無言で砂浜に降りた。母はスーパーの袋に押し込まれた魚や牛乳やらを気にしていたが、私たち兄弟は一も二もなく父を追いかけた。裸足で歩くと陽に照らされた砂で、足の裏が少しだけ熱かった。ふと見上げた雲一つない空に、ピリピピーッとけたたましく鳴く鳥が見えたので「父さん、あれはなんていう鳥?」と聞くと、「あれは雲雀だ。あっちの草むらに巣でもあるんだろう」と父はタバコを吹かしながら道路脇の雑草原を指差した。「雲雀は自分の縄張に入ってくるやつがいると、あっちいけ!ここは俺の家だぞって鳴くんだってさ」と誰の受け売りか、三つ年上の兄が訳知り顔でそんなことを言った。私は、羽を懸命にばたつかせ、空高く舞い上がって鳴く雲雀を見て、そうか雲雀にとって私たち家族はよそ者なのかと思った。それから父が「間違って巣を踏むなよ、あいつらは家を守るために必死に魂で鳴いているんだから」と真面目な顔で言った。雲雀が「口ではなく魂全体で鳴く」とは漱石の一節であることはずっと後から知ったが、父の言いつけとは裏腹に兄と私は、いつも眺めて通り過ぎるだけの砂浜に降り立ったことが何だか特別なことのようで、妙にはしゃいで走りまわった。よく見ると雲雀は一羽だけではなく、あっちにも、こっちにも甲高く鳴く声が響いていた。その一羽一羽のそれぞれに家族があって「あっちいけやー、ここは俺んちだぞ!」そう言っているのかと思うと、どこか愛らしく微笑ましかった。父の方に目をやると、しぶしぶ降りてきた母と並んで砂の上に腰を下ろし、海を見つめながら何だか深刻そうに話していたが、寄せる波の音で、私にはそのとき何を話しているのかちっとも聞こえなかった。
兄と私がひとしきり遊びまわったその帰り道、日が差し込んで蒸し暑くなっていた車内で「もうこの道は通れなくなるんだなあ」と父は言った。私がポカンとしていると、「新しい道ができたんだ、…が、でき…よ」と父は続けた。窓から吹き込む風の音でよく聞き取れなかったが、助手席の母がおもむろに後部席の子どもたちの方に向き直り、風に負けぬようにびっくりするような大きな声で、「原発ができるんだよ!」と言った。その当時の私には意味も分からなかったが、「ゲンパツ」というはじめて聞くその得体の知れない言葉の響きが、ボウボウと吹き込む風の音と合わさって、何やら空寒く、ただ恐ろしかった。そして、それが普段はいたって温和な母の口から発せられたことも相まって、頭の中でしばらく鳴り止まなかった。
ゲンパツ!
間もなくして、父の言うとおり海の道はガードレールでストップされ、付近は砂浜からも立ち入れぬように金網が張られた。椎谷岬までの道程は、磯の香りを間近に感じながら走るあの海岸線から、少し小高い山を登り短いトンネルを抜ける、ちょうど原発を迂回するようなルートに変わった。道幅も広く、日光を反射して艶々しく光る真新しいアスファルトも綺麗だったが、私にとって海の道のような感慨はなかった。加えて、今度ばかりはどんなに鳴いても、よそ者を追い払えるのかどうか、ゲンパツに家を取られてしまったのではないかと、あの雲雀たちのことがずっと気にかかっていた。
幾日か悶々とした時を過ごした後、意を決して兄に「兄ちゃん、あそこ、海の道はどうなったかなあ?」と聞いた。兄は無言だったが、それでも傍を離れない弟を慮ってか、ようやく重い腰を上げてくれた。梅雨の晴れ間、二人で自転車に乗って雨上がりの水溜りをぬうように、海の道の入口まで走った。途中、キコキコと自転車のペダルの軋む音が「あっちいけやー、ここは俺んちだぞ!」と鳴くあの雲雀たちの鳴き声のように聞こえてきて、否応なしに鼓動が高鳴った。そんな私の胸のうちを知ってか知らずか、兄は自転車を蛇行させたり、片手をズボンのポケットに突っ込んだりして、鼻歌交じりにペダルを漕いだ。
果たして車止めのガードレールまで来ると、遠くの方に大きなブルドーザーとダンプカーが何台もいて、砂を造成しているのが見えた。雲雀のいた草の生い茂った丘陵は、海の道もろとも跡形もなく押しつぶされて真っ平らになり、草木一本も生えていなかった。頭の中を、遠く聞こえるはずのない重機の「ゴーッ!」という音がこだました。茫然自失の中、「兄ちゃん、雲雀はどこだろな」と聞いたが、兄は遠くを見たままだった。親鳥は逃げてしまったか、雛は、卵はと、幼い私にもブルドーザーが雲雀の巣を土砂とともに押しつぶし、卵も雛も飲み込んでしまうというような無残な光景が窺い知れて悲しかった。さらに目を凝らすと、不規則に隆起していた砂浜は、無慈悲なキャタピラで区画を割り振られ、周りの自然とは不釣り合いな、絨毯の柄にも似た幾何学模様を形成していた。
帰り道は、海に沈む夕焼けに照らされ、兄と私の影は長く伸びていた。来る時とは違って兄は鼻歌も歌わず、まっすぐ前を向いて押し黙ったままだったが、やはりペダルの軋む音だけが悲鳴のように「あっちいけやー」と私の耳を劈(つんざ)いた。途中、「あんなでっかいブルドーザーで、やることないんだ」と搾り出すような声で言った兄の眼は赤く、それを見た私は余計に心細くなってシクシクと泣いた。梅雨はこの日に明け、それっきり私たちはあの海の道の話をすることはなかった。
原発が数年を要して完成し本格的な運転が始まると、周囲の警戒は以前よりずっと厳重になった。原発を囲むように建てられた金網の上には丁寧に有刺鉄線が巻かれ、海にも沖の方まで堤防とバリケード、一か所に限定された入場ゲートには屈強なガードマンが立ち、おかげで中を窺い見ることすら難しかった。誰が言いはじめたのか、子どもたちには決して入ることが出来ない原発を皮肉って、金網の向こうを「あっち側」と呼んだ。そして釣りに出かけ、思うように獲物が得られなかった時など、決まって「あっち側の方が良く釣れるんだよなー」と釣果を原発のせいにした。ある日、ベニヤ板にペンキで書かれた「原発建設反対、子どもたちの未来のために!」という、役を解かれた古看板を見つけた友達の一人が、「俺も反対だよ、鱚だってきっと反対だ」とおどけたが、ほかの友達に「鱚は賛成だろ、お前に釣られずにすむんだから」と返されたので、空のバケツを手に皆は顔を見合わせニヤニヤと笑った。私は遠くあの海の道の方を見た。そこには風よけの松林がうっそうとして、最初から何もなかったかのように穏やかだった。
時は経ち、原発に鱚の良く釣れるポイントを奪われ、ボヤいていた友達は東電の社員になった。そして、私の兄もまた「あっち側」で働いている。級長も、そんなことには無関心だった友達も、ここでは多くの人間が原発やその関連施設で働くことを生活の糧としている。福島第一原子力発電所の事故を受け、日本中の世論が脱原発、反原発に傾く中、彼らは皆一様に「いまさらだよな」と不満とも不安ともつかないような心情を口にする。
現在、柏崎刈羽原子力発電所の原子炉はすべて稼働を停止している。おかげで兄は残業もめっきり減り、休日は家族サービスに勤しむ良いパパだ。原発に釣りのポイントを奪われた友達は酒の席で「収入が半分になった」と、今度は原発が動かないことをボヤいていた。私たちは原発が出来る前、そして出来た後と原発に翻弄されるまちに暮らしている。あの頃、魂で鳴いていた雲雀たち。巣を奪われ、卵を雛を奪われた雲雀たち。我々はあの雲雀たちと、いったいどこが違うと言うのだろう。
今年の正月、したたかに酔っぱらった兄はあの海の道のこと、そして二人で見たあの日の光景を思い出し、ぼそっと言った。
「俺たちみんなひばりだな」
私も同じことを思っていた。
(新潟県柏崎市)
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更新日:2019年03月28日