令和元年度第2期「小諸ふるさと遺産」を認定しました
地域で大事に守り伝えられてきたもの、地域のシンボルなどその歴史的、文化的価値にかかわらず、後世に残していきたいものを「小諸ふるさと遺産」として、小諸市教育委員会が以下の通り認定いたしました。
認定された小諸ふるさと遺産の所有者には、小諸ふるさと遺産認定プレートを交付するほか、『小諸ふるさと遺産集』として冊子にまとめ、公共施設や観光案内所の窓口で配布します。
認定 番号 |
ふるさと遺産の名称 |
認定内容 |
地区 |
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No.1917 |
駒石(駒形神社ご神体) |
石峠区にある駒形神社は、駒形観世音(通称、駒石)をご神体としています。 『木曽路名所図会』(1805年出版)には、この石は、元禄の頃(1700年頃)に馬好きの者の夢枕に立った観音様のお告げにより掘り出され、その後、社を建てて毎年4月17日にお祭りをするようになった、と記されています。 「石峠」という地名は、この珍しい石にちなんでつけられた、とも言われています。 |
北大井 |
No.1918 |
涌玉用水 |
御代田町塩野地籍大谷地原の湧水を水源とし、和田区、市区、耳取区の農地を潤す農業用水です。1600年代前半には開削されたとみられ、現在も3区で組織する涌玉用水管理委員会により大切に保管されています。 御影用水と一部水路を共用するため、度々「水論(水争い)」が起こったことから水利権等を確認する絵図や古文書が今も大切に保管されています。また、現在も続く御影用水管理委員会との分水会議は、その名残です。 |
南大井 |
No.1919 |
こもろミズオオバコビオトープ |
こもろミズオオバコは水田等に自生する水草で、農薬などの影響により環境省レッドリスト絶滅危惧2類に指定されている稀少な植物です。御影区の水田に自生していましたが、平成15年(2003)に中部横断自動車道建設に伴う灌漑用調整池の予定となったため、休耕地だった現在の場所へミズオオバコを移植したことをきっかけに整備されました。小諸の水辺環境を再現したこのビオトープは、ミズオオバコのほか、デンジソウ、ガムシ等の稀少な動植物のすみかとなり、古き良き里地を未来へつなぐ役割を果たしています。 |
南大井 |
No.1920 |
鈴木翁之寿碑 |
鈴木善人(幼名、善之助 1829-1899年)は、江戸生まれの囲碁棋士。幼少の頃より囲碁を好み、17歳で四段の免許を得ました。明治初めの頃、海応院の碧落庵に移り住みます。善人のもとへ小諸をはじめ、県内各地より多くの同好者が殺到しました。こうして、小諸は「囲碁の里」といわれるようになります。 鈴木翁之寿碑は、明治27年(1894)に善人66歳の記念として、多くの門人により建立されました。『明治碁譜』には、寿碑のある光岳寺で善人と井上保申が対局した棋譜が掲載されています。 |
東部 |
No.1921 |
赤坂トンネル |
「赤坂トンネル」は、しなの鉄道、JR小海線の線路によって隔てられた、古城と赤坂を繋ぐ38mのトンネルで、車用と歩行者用の二つのトンネルが並列します。歩行者用は新しいものですが、車用には一部、レンガ積みの内壁が残っており、小諸の近代交通史を理解するうえで貴重な資料です。 「赤坂トンネル」は今も登下校、通勤時間帯には多くの往来があり、古城側出入口周辺では有志により整備された花壇が通行者を見送ります。 |
東南部 |
No.1922 |
停車場拡張記念碑 |
赤坂トンネルの赤坂側出入口に建つ巨大な石碑で、「大正二年停車場拡張記念碑」とあります。信越線(現しなの鉄道)の事業拡大、佐久鉄道(現JR小海線、大正4年)の開通などに先立つ、小諸駅の拡張を記念して建てられたもので、背面には拡張事業にかかる費用を寄附した多くの人たち(主に小諸町の商人)の名前が刻まれています。 小諸商人の財力と小諸駅の拡張とともに発展していく商都小諸の様子を物語る石碑です。 |
東南部 |
No.1923 |
小林貞吾記念館 |
小林貞吾は、大正2年(1913)に旧大里村の諸(現在の諸区)で生まれた彫刻家です。 16歳で上京して彫刻を学び、日本美術院展覧会に連続入選するなど才能を発揮しますが、昭和18年(1943)に太平洋戦争に召集され、翌年30歳の若さで戦病死しました。 没後、親族が建物を建て小林貞吾記念館として開館。地域文化の向上を願って貞吾の彫刻作品を展示しています。 |
大里 |
No.1924 |
大ぬまへの道しるべ(道標) |
乗瀬東今宮地籍にある道標で、「右志をの道左大ぬま道」と刻まれています。建立年代は、不詳。 「志をの」は塩野、「大ぬま」は大沼のことで、今も残る地名です。 かつて塩野村の西、大沼地籍に大沼村(江戸初期の石高帳に名前が出てきます。)がありましたが、乗瀬区に残る口碑は、ある時、浅間山からの大水で押し流され、廃村になってしまったと伝えています。 |
北大井 |
No.1925 |
金剛山石碑 |
浅間山の自然石を用いた巨大な石碑で、正面に大きく「金剛山」と刻まれています。建立は嘉永4年(1851)。口碑では村を襲う流水害や降雹の被害に悩まされた村人が除災祈願のため、栃木県古峰ヶ原の金剛山よりご神体を勧請し、石碑を建てて祀ったのが始まりとしています。祭日は7月27日で、現在も変わらず石碑の前で安全祈願祭が執り行われています。なお、当初は、現在地から東方50mの東今宮地籍に建てられましたが、圃場整備事業によって移転されました。 |
北大井 |
No.1926 |
甘利顕諄顕彰の筆塚 |
この筆塚は、乗瀬区で私塾を開いた甘利顕諄(通称、双吉郎)を讃えて嘉永4年(1851)に建てられたものです。 碑の台座には約130名もの門弟達の名が刻まれ、塔身には「筆硯精良人生一楽」という師の書が刻まれています。 人望厚く学識豊かな顕諄は乗瀬のみならず、請われて下中込村(現、佐久市)まで教授に出向いており、開塾より多くの門弟を育てた功績により、70歳の時、筆塚の建立に至りました。 |
北大井 |
No.1927 |
頼朝井の湧水 |
乗瀬区の南、字「頼朝井」の地籍に、下流域の田畑を潤す湧水があります。 口碑では、昔、源頼朝がこの地に「巻き狩り」に訪れ、飲み水に困っていた際に頼朝が竹の鞭を地面につき刺したところ、こんこんと水が湧き出してきて、以来、土地の人々がこの湧水を頼朝井(頼朝井戸)と呼ぶようになったと伝えています。 |
北大井 |
No.1928 |
北国街道への道しるべ(道標) |
乗瀬区の住宅地の南境、沢田地籍にある角柱の道標で、北面に「南無阿弥陀仏」、東面に「江戸道」、西面に「ひら原」とあります。建立年は不詳。 建てられている場所や刻まれた銘文から北国街道への接続を案内する道しるべといえます。 ちなみに、北国街道が整備される以前、この付近には「関東道」という主要街道が通過していたと伝えられています。 乗瀬区には中世城郭が点在しており、関東道との関連が窺えます。 |
北大井 |
No.1929 |
小諸八重紅枝垂 |
懐古園馬場にある小諸八重紅枝垂は 明治13年(1880)に士族会が懐古園の馬場に植えたもので、昭和40年代に日本花の会初代農場長が、他にはないここだけのものとして命名したといわれています。 平成15年(2003)には小諸にしかない貴重な桜を守ろうと小諸八重紅枝垂保存会が発足し、当時は懐古園でしか見られなかった桜が保存会の活動により、現在では飯綱山公園をはじめとして、市内随所で見ることができます。 |
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No.1930 |
砲術一寸之金的絵馬 |
明治4年(1871)に弥美登里(みみとり)神社境内で行われた火縄銃による奉納射撃の絵馬です。 絵馬には、69枚の約3センチメートル四方の金紙を射抜いた的が貼られています。これは、絵馬に記された69名が約34m離れたところから撃った的です。 旧耳取村では、江戸時代より鉄砲が造られていました。奉納絵馬に名前が見える願主の丸山氏と世話人の吉澤氏は江戸時代から続く鉄砲鍛冶で、耳取に住み小諸藩に納める鉄砲を製作していました。 |
三岡 |
No.1931 |
準提観世温菩薩 |
後平区北部の飼場(かいば)集落のお堂に安置されている石仏です。地域を守る「お観音様」として古くから親しまれており、特に安産の御利益があるとして飼場集落はもとより、周辺集落の人々からも信仰を集めてきました。 後平区の女性たちは、11月下旬に「十九夜様のお日待ち」として、女性の無病息災や地域安寧などを願い、念仏講を開きます。十九夜講の本尊は、通常、如意輪観音のところ、ここでは準提観音であり、珍しい形式です。 |
大里 |
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更新日:2020年12月22日