懐古園の歴史

小諸城址懐古園の歴史

小諸城の起源は平安時代、小室太郎光兼からはじまる。

 小諸城の起源は、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎光兼(木曽義仲の武将)が、現城址の東側に築いた館(宇頭坂城)に始まる。
 やがて小室氏は南北朝時代に衰退し、大井氏が勃興して小諸佐久地方を支配することとなるが、戦国時代に入り、佐久地方も戦国の騒乱に巻き込まれ、大井宗家は滅亡し、大井家の一部は小諸に逃れ、中沢川のほとりに小諸城の前身である鍋蓋城を築城し、さらに激化する乱世に備え、その子孫が乙女城、別名白鶴城を現在の二の丸付近に築城し、周辺の要地には支城を配置して外敵に備えた。

武田の軍師、築城の名手山本勘助の小諸城縄張り

 天文23年(1554年)、甲斐の武田信玄の侵攻で鍋蓋城以下は武田氏の手中に落ち、以後約30年間、武田氏の城代によって支配される。
 信玄は、この地の重要性にかんがみ、重臣の山本勘助と馬場信房に命じて鍋蓋・乙女城を取り込んだ新たな縄張りをさせ城郭を整備した。これが小諸城の原型である。
 武田氏の滅亡後は、織田、徳川と支配が移ることとなる。

中世の城から近代城郭へ、仙石秀久の大改修

 天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、小田原攻めの軍功により再起を果たした仙石秀久が5万石で小諸に封ぜられる。秀久は城の大改修と城下町の整備に取り掛かり、今日遺構の残る堅固な城とした。
 世は徳川による天下泰平の時代となり、仙石氏は秀久の子忠政のとき上田城に移り、小諸城は徳川家光の弟の忠長の領有するところとなり、城代が置かれた。その後もめまぐるしく城主が変わり、石高も5万石から近世中期までに2万石へと減らされたが、重要な領地であることから、歴代藩主には徳川譜代等が配された。

大手門の写真

日本城郭建築初期の代表格大手門

版籍奉還まで170年間、牧野氏10代にわたる居城

 元禄15年(1702年)、越後国与板藩より牧野康重が1万5千石で入封すると、版籍奉還まで約170年間、牧野氏が10代にわたって居城とした。
 明治4年(1872年)の廃藩置県で小諸城は役割を終え、明治13年(1880年)に城郭は小諸藩旧士族へ払い下げられ、旧士族により本丸跡に懐古神社が祀られ、「懐古園」と名付けられた。
 その後、大正15年(1926年)に、造園の権威である本多静六の設計により、近代的な公園に生まれ変わった。

島崎藤村と小諸

 明治32年、かつての恩師木村熊二に招かれて、小諸義塾の英語と国語の教師として赴任。函館の網問屋秦慶治の三女冬子と結婚。小諸町馬場裏の士族屋敷跡に新家庭をもつ。以降、小諸で過ごした6年余の間に「雲」「千曲川のスケッチ」「旧主人」などが生まれ、大作「破戒」が起稿された。
 昭和2年には、有島生馬の発案により、藤村の友人や門下生によって懐古園内に「千曲川旅情のうた」の詩碑が建てられた。詩碑の詩は藤村の自書、鋳造は高村豊周による。

島崎藤村詩碑の写真

島崎藤村詩碑

小諸城ゆかりの人物

仙石秀久

 美濃国に生まれた仙石権兵衛秀久は、秀吉の旗下にあって軍功が認められ、讃岐高松城主10万石の大名に栄進するが、天正14年(1586年)九州島津との合戦での軍令違反による惨敗で秀吉の勘気にふれ、領地没収の上追放されてしまう。
 しかし4年後、天正18年(1590年)小田原の役に馳せ参じて抜群の戦功をたて、その戦いぶりが秀吉の目にとまり5万石を与えられて小諸城に入封する。
 以後、小諸城は秀久の大改修によって攻防兼備の新時代の城郭へと生まれ変わる。秀久が二の丸、黒門、大手門を建て、その子忠政が三の門、足柄門を建てるなど、在城わずか32年の仙石氏の小諸時代は、城づくりの時代でもあった。

山本勘助

 勘助は、若い頃から諸国を遍歴し、信玄に仕えたのは天文12年(1543年)、51歳のときだった。身の丈短く独眼で右足も不自由だったといわれるが、信玄は一目で勘助の非凡さを見抜き、足軽大将として召し抱えた。以後、信玄の知恵袋として活躍するが、永禄4年(1561年)4回目の川中島の戦いの際、勘助が進言した「啄木鳥戦法」が上杉謙信に見破られ、武田軍が窮地に追い込まれたため、責任を感じてひとり敵陣に突入し憤死したとされる。
 勘助は築城の名手としても知られ、勘助が縄張りをした小諸城は「攻めるに難しく、守るに易い城」いわば難攻不落の城だった。他に高遠城や海津城も勘助の手によるものである。

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更新日:2019年04月01日