小諸出身の日本画家 白鳥映雪

白鳥映雪

 明治45年7月23日(7月30日から大正元年)、長野県小諸の滝原に生まれる。本名は久寿男。生後まもなく母は23歳の若さで病死する。

 大正8年、大里小学校に入学。翌9年、8歳の時に父親も亡くし、以後は継母に育てられる。

 小学校時代に伊東深水の美人画を見て感動し、画家になることを夢見る。

 昭和8年、家族の反対を押し切って上京し。日本画の巨匠である伊東深水の門下生となるが、生活は苦しく、歯科助手などの様々な仕事をしながら夜間に川端画学校に通い画業に励んだ。

 昭和18年、31歳の時に第6回文展に「生家」が初入選する。

 終戦後は小諸に帰郷するが、師である伊東深水も小諸に疎開しており、作品の制作を手伝いながら指導を仰いだ。

 昭和25年、戦後の日本の復興を情感に訴えて表現した「立秋」が日展で特選となり、昭和32年には「ボンゴ」で2回目の特選となる。

 昭和39年には東京日本橋の三越で個展を開催。翌昭和40年、53歳のときに日展会員となるが、昭和55年に長女美映子を亡くしたショックから、一時は筆を置くことも考えた。

 昭和57年、日展評議員となり、昭和61年には日展で「寂照」が内閣総理大臣賞を受賞。平成元年には長野冬季オリンピック招致にあたり、サマランチ会長に画伯の「舞妓」が長野市長より贈呈された。既に老境を迎えていたこの頃、人生の神秘を幽玄な世界に求め、その表現に能楽を題材ともした。

 平成5年、日展出品作「菊慈童」で日本古来の芸術である能楽の幽玄さを見事に表現した功績が認められ、恩賜賞と日本芸術院賞を受賞する。

小諸高原美術館・白鳥映雪館

 平成7年、83歳の時に日展参事となる。勲四等旭日小綬章を受章。市立小諸高原美術館(現小諸高原美術館・白鳥映雪館)設立につき作品を195点寄贈する。

 平成9年、日本芸術院会員に推挙される。翌平成10年に小諸名誉市民となる。同年、日展顧問に就任。代表作の一つである「羽衣」が首相官邸に飾られる。

 平成13年、「菊慈童」と「序曲」が衆議院議長公邸に飾られる。

 平成15年、91歳の時に勲三等瑞宝章を受章。

 平成19年、急性心不全のため小諸市で逝去。晩年は病により右手が不自由になったが、それでも左手で絵を描きつづけ、死の直前まで絵に筆を入れ続けた。

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更新日:2019年03月28日