郷土敷石遺構

ごうどしきいしいこう

郷土敷石遺構

指定項目

郷土敷石遺構

所在地

小諸市東雲4丁目4159-1(郷土)

指定年月日

昭和45年3月31日(市史跡)

指定番号 4-1

概説

この地は標高およそ850メートル、地字名は郷土(ごうど)といい「郷土、郷土、三郷土、中の郷土に金がある」と伝誦されたところである。

浅間山麓の湧水地帯は、標高700~800メートル前後を中心とする間にあると言われており、縄文時代にはこれらの湧水に依存して生活していた可能性が強い。

近年、県、市でも発掘調査が行われているが、中でも、平成4年~7年にかけて上信越自動車道建設に先立って行われた県埋蔵文化財センターの調査では、8,000平方メートルを越える面積が調査され、縄文時代早期末~前期初めの住居跡6棟、同じく中期中頃から後期初めの住居跡106棟のほか、古墳や古代の住居跡も検出されている。

こうしたことから、特に縄文時代中期中頃から後期初めにかけて栄えた浅問山麓の拠点的集落であったとされている。

本遺構は、昭和40年(1965年)4月、市誌編纂の一環として行われた第二次の発掘調査の際、平安時代の住居跡とともに見つかっている。柄鏡形のもので、鏡に当たる部分の径は2.8メートルである。

床には大小の鉄平石が敷かれ、ほぼ中央には一辺約90センチメートルの正方形に近い炉が設けられている。入口部は、主体部とほぼ同じ40センチメートルの深さに掘り込まれており、主体部に近い部分に一対の円柱状の礫が左右対称に立てられていた。

一方、出土品には、縄文時代中期の土器片や打製石斧などがあり、この敷石遺構も出土した土器から縄文時代中期後半に造られたものと考えられている。

なお、名称は敷石遺構となっているが、その後の八幡一郎氏の報告書によると、現在では敷石住居址といった方が良いかもしれない。

浅間山南麓の縄文文化は、八ケ岳山麓の縄文文化とよく対比されるが、浅間山南麓は八ケ岳山麓よりもやや遅れ、中期後半に隆盛を迎えるといわれている。郷土遺跡は、前述したようにその代表的なものと言え、またこの敷石遺構(住居址)も、柄鏡形住居としては早くに調査されたこともあり、後世に伝えていきたいものである。

郷土敷石遺構跡の写真
郷土敷石遺構で出土された土器の写真
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更新日:2019年03月28日