藤村記念館だより14

公開日 2014年03月21日

最終更新日 2017年10月05日

<小諸在住の藤村を訪ねた友人たち 2>

  小諸にいる藤村は、「文学界」同人ら(柳田國男、蒲原有明、田山花袋など)と盛んに連絡を取り合い、その影響を受けて外国文学の研究に没頭した(1)。その友柳田國男人たちの紹介で藤村宅を訪れた人々がいた。小山内薫や有島生馬は、小諸訪問をきっかけとして終生の交友が続けられた。藤村一家にとって東京からの訪問客は、「山国の生活」の寂しさを紛らわす無上の喜びであったらしい。

5 柳田(松岡) 國男 34年11月来訪。詩人、民俗学者。
 一高時代から「文学界」に投稿し藤村と親交が始まる。明治30年、田山花袋、国木田独歩らと「抒情詩」を出版。33年東京帝大法科卒業後、農商務省に勤務する。34年、長野県庁での講演のために出張し、その折に藤村宅を訪れる。訪問の様子は、『家』にも描かれている。「椰子の実」が明治31年夏の柳田の体験を聞いたことから作られたことは有名。

青木 繁

6 青木 繁 ・ 坂本繁二郎 ・ 丸野 豊  35年11月から12月来訪。画家。
師の丸山晩霞を頼って来諸し鶴屋旅館に一ヶ月ほど滞在し(この費用は丸山晩霞に出してもらった)、懐古園はじめ各地でスケッチをした。ある日、晩霞が藤村を伴って同館を訪れ、三人に紹介している。絵画に関心の深い藤村と話題が尽きなかったらしい。(2)

7 小山内 薫 35年12月来訪。小山内 薫
 『藤村全集』(筑摩書房)の書簡には、「小山内はこの年の春第一高等学校から東大に入り、(蒲原)有明の紹介状を持って小諸に藤村を訪ねた。以来、藤村上京のおりには宿をたずね、いっしょに芝居見物に出かけ、団十郎の批判や劇の本質等について論じ合ったという」(3)とある。藤村は、「学生ではありましたが、立派な見識を備えてゐて、初めて訪ねて来られた時から愛すべき性質に、たちまち心を傾けてしまひました」(4)と小山内の人柄に魅かれ交流が始まったきっかけを述べている。
 
8 有島 生馬(壬生馬) 36年晩秋 画家。
 友人たちと妙義山に登った後、一人小山内薫の紹介で藤村を訪ねた。有島生馬の『思い出の我』(5)にはこの時の藤村宅での客人おもてなしの、有島生馬にとって驚きの食事の様子が描かれている。「やがて暗い電燈が戸外の薄明かりより黄色く、主有島生馬客の前に運ばれた二つの膳を照らした。味噌汁椀と沢庵の小皿と、きざ柿の二つ切りの中皿が膳に載っていた。きざ柿はお菜なのか御食後なのか判じかねる献立だった。藤村は言葉少なに食事を終った。この人、小諸の平常、その他様々を語る質素な食膳が後まで永く記憶に残った」。そして、駅前のひし屋旅館の二階の一室に移り、午前3時まで文学について語り合っている。

9 田山 花袋(録弥) 37年1月 小説家。
 二人の交友は明治26年頃か始まり、終生続いた。藤村にとっては一番の親友であろう。花袋は著書の中で小諸訪問のことを書いている。「明治三十七年の一月だ。さうだ、日露戦争の始まらうとする年だ。私は急に思い立って、島崎君をその信州の山の上に訪問した。・・・・・遂に私は畠の中と言っても好いやうな処に、一軒藁葺の家のある田山花袋のを発見した。前には菜の霜がれた畠などがあった。そこに島崎君は住んでゐた。・・・・・私達はその時何を話したであらうか。イプセン、でなければビョルンソン、でなければ、トルストイ、モウパッサン。で、夜更るまで私達は飽くことなく話した。・・・そして其夜は火燵に寝た」(1)。
 花袋が帰京すると間もなく日露戦争が始まった。   (芦)

(1)「小諸の古城址」,田山花袋,臨川書店,平成6年(復刻版).
(2)履歴書」,坂本繁二郎,日本経済新聞社,1969.
(3) 第17巻,筑摩書房,1974.
(4) 読売新聞,昭和4年1月6日.
(5) 「思い出の我」有島生馬,日本美術出版,1976.