藤村記念館だより13

公開日 2014年03月21日

最終更新日 2017年10月05日

<小諸在住の藤村を訪ねた友人たち 1>

 島崎藤村が期するところがあって、「山の上」の町小諸にやってきたのが明治32年4月であった。それから6年あまりの「山国の生活」であったが、世界の文学を貪欲に吸収し時代に遅れまいとして新境地を切り開いていった。それは在京の友人たちの関わりによるところが大きかった。そんな友人たちが小諸を訪れ、「山国」に中央の文化をもたらしていった。

1 橘 糸重 33年夏来訪。 ピアニスト、歌人。橘 糸重
  明治30年9月から藤村の学んだ東京高等師範学校附属音楽学校(東京音楽学校)の助教授。『水彩画家』の柳沢清乃、『家』の曽根のモデルとされている。「島崎藤村事典」(1)によると、糸重は神田明神町に住んでおり藤村の住居の新花町から近く、藤村は姪のいさ子(長兄秀雄の長女)を連れてよく遊びに行き、結婚した時には妻のフユを伴い糸重に紹介したこともあった。藤村が小諸に住んでから、たまたま軽井沢に来ていた糸重に鯉を送ったことがあった。その返礼に小諸の寓居を訪れたという。糸重が藤村宅を訪れた様子は、小説『水彩画家』『家』から読み取ることができる。作品から二人の間に恋愛感情があったように思われるが、糸重にとってはいい迷惑であったらしい。糸重は佐々木信綱の主宰する竹柏会の同人である。藤村のすぐ上の兄友弥、姪のいさ子、神津猛夫人の長(ちょう)なども竹柏会の同人であった。

大田水穂

2 太田 水穂(貞一) 33年8月来訪。教育者、歌人。
 明治31年長野師範学校卒業。同級生に島木赤彦(久保田俊彦)、伊藤長七らがいた。在学中に「文学界」に投稿していた。松本高等女学校教師から和田小学校校長となる。33年は友人伊藤が小諸小学校に在職していたこともあり、来諸し文学界の同人藤村を訪ね交友を結ぶようになった。太田は後に小諸義塾での藤村の教え子残星土屋総蔵の短歌の師となる。歌誌「潮音」主宰。藤村記念館前庭には、「一師二友の碑」が有り、太田水穂、土屋残星、宮坂古梁の歌が刻まれている。大正8年早逝した残星の遺稿集『裾野の雲』を藤村とともに編集した。

徳富蘆花

3 徳富 蘆花(健次郎)  33年10月来訪。小説家。
 兄蘇峰の経営する民友社に入り国民新聞の翻訳係を勤めていた蘆花は、紀行文の取材のため佐久地方を訪れた。佐久教会の牧師川添万寿得(明治学院出身)の案内で馬場裏の藤村宅を訪問する。この年の1月に、蘆花の「不如帰」が出版されていた。川添は、「凡そ二時間位語り合ったが、後年の二大文豪もここでは余り話が合わなかった。それは性格的にも容れない点があり文学傾向も異なる為であったろう」(2)と記している。 

4 相馬 黒光(星 良) 34年9月来訪。新宿中村屋創始者。  相馬黒光
 藤村の妻になった秦フユと寄宿舎で同室、姉妹のように仲がよかった。明治30年4月、相馬愛蔵と結婚し夫の実家で暮らしていたが、安曇野での生活に耐えられず、病気療養のためとして仙台の実家に行く途中、送ってきた夫と共に小諸にいる恩師藤村と親友フユの家庭を訪れた。夫愛蔵は旅館に泊まり、黒光はフユと枕を並べ語り明かしたという。                

                                       (芦)

(1) 「島崎藤村事典」,伊東一夫編,明治書院,1972.
(2) 「川添万寿得遺稿選集」,澤本猛虎編,青山書院,1943.