藤村記念館だより12

公開日 2014年03月21日

最終更新日 2017年10月05日

<藤村と伊藤長七(寒水)>

 『破戒』執筆のヒントは、フユ夫人と結婚して馬場裏に新居を構えた明治32年5月、隣伊東喜知人となった小学校長伊東喜知から聞いた話であった。伊東が校長をしていた小学校は、長野県内最大の被差別部落をかかえており、当時差別事件が頻発していた。校長としての伊東はその対応に苦慮しており、藤村との部落差別の話題の中から被差別部落出身の教育者大江磯吉の話をしたと思われる。大江は長野師範学校教師であったが、明治25年に部落差別のため師範学校を追われ、その後大阪、鳥取の師範学校を転々とし、最後は兵庫県の(旧制)中学校の校長となった。明治35年腸チフスに感染し34歳の若さで急逝した。(1)

 「山国の新平民」の中には、この教育者大江についての話をしたもう一人の人物、伊藤長七(寒水)も登場する。伊藤は歌人島木赤彦(久保田俊彦)や太田水穂(貞一)と長野師範学校の同期生で、明治33年4月に小諸尋常高等小学校の訓導として赴任し、非常に個性的な教育(当時の管理的な厳粛主義教育に反して、子どもたちの自発性を重んじる活動主義教育)をし、教え子たちに非常に大きな影響を与えた。赴任早々から藤村との交流が始まった。伊藤は東京高等師範学校に合格し、翌春上京している。たった一年間の小諸尋常高等小学校在任であった。明治34年3月に小諸を去るに当たって、「小諸を去る辞」(2)、を残しているが、その中に藤村との交流の一端が記されている。                                  大江磯吉

 小諸を去る辞
「(前略) 又思ふ、一夜月色朧として酔月城裏 春光淡きこと夢の如くなるの夕 藤村島崎先生と園中を逍遥しつゝ 花下に温雅なる詩的趣味を聞くを得たりしこと。(後略)」
 「(前略) うるはしき哉 碓氷の紅葉 秋やうやく長けて 四山霜に染まる候 一日吾藤村先生に具して碓氷の新道を辿りき。天候快晴 十里一目。見渡せば谷のくま 山の峰 只紅黄と緑と織り交ぜるたる錦繍にあらぬは無し。脚底に清泉を掬で 団子を熊の平の茶店に命じつゝ身は宛として雲外の仙宮に遊ぶの情味、何れの日にか忘るゝを得べき。(後略)」 

 藤村の住宅は小諸尋常高等小学校近くの馬場裏、伊藤の下宿は小諸義塾近くの馬場町、自由主義教育の私立小諸義塾教師の藤村と、厳粛主義教育の小学校の中で一人子どもたちの自発的活動を重んじる活動主義教育を実践していた伊藤長七は何かと気が合い、僅かな期間であったが密度の濃い交流があったのであろう。そんな中で藤村が関東京師範学校時代の伊藤長七(寒水)心を持っていた師範学校教諭であった大江の話題が出たのも自然のことと思われる。

 伊藤長七は『破戒』の主人公瀬川丑松の友人教師土屋銀之助のモデルと言われているし、勤務していた小学校の校長一派と丑松等の争いは、伊藤から聞いた勤務していた小学校の内紛がヒントであった。伊藤は、明治34年4月に東京高等師範学校英語科に入学、3年間の本科を終えて研究科に進み、38年3月に卒業し、同校助教授兼附属中学校教諭を勤めた。明治45年東京朝日新聞に連載された伊藤の「現代教育観」が、政治家後藤新平、文部官僚・教育者の沢柳政太郎らに認められ、大正8年東京府立第五中学校(現 東京都立小石川中等教育学校)初代校長に抜擢され、自由主義教育を実践した。

(1) 「『破戒』の著者が見たる山国の新平民」,『文庫』,明治39年6月.
(2) 『学友』,長野師範学校学友会,明治34年5月.