藤村記念館だより11

公開日 2014年03月21日

最終更新日 2017年10月05日

<藤村を敬愛した教え子土屋残星(総蔵)>

 島崎藤村の教えを受けた小諸義塾出身の生徒たちの中で、藤村を慕い、在学中から土屋総蔵卒業後まで師弟関係を続けていたのが残星土屋総蔵です。藤村の書簡集に残る中でも残星宛のものが他の教え子に比べてずば抜けて多いことからもその関係の深さがわかる。明治39年3月小諸義塾卒業後は家業の農業をし、太田水穂に師事し短歌を作るようになった。残星はその雅号である。明治44年藤村の恩人である神津猛の関係する志賀銀行に入社したが、大正8年31歳の若さで急逝した。明治39年3月に出版された『破戒』の「千曲川流域之図」は総蔵の手によるものであった。

 藤村と歌人太田水穂が編集した土屋残星の遺稿集『裾野の雲』の、「仏蘭西へ」(大正4年2月信濃毎日新聞)の中に、「(前略) 幾年か前の日記を繰拡げて行きますと、先生のお供して豊野から飯山迄の旅行記が細々と書き記されてあるのを発見して、実に愉快に読みました(後略)」とあり、小諸義塾在学中に藤村と共に飯山を訪れ、地図制作の見聞をしていたことが分かる。これまで藤村が飯山に取材旅行したのは、丸山晩霞と明治35年か36年の秋に訪れたのと、明治37年1月白檮山いそじ・三村きのに同行して蓮華寺に一泊した2回が知られています。総蔵は、「文学世界」(明治41年10月に、「僕も『破戒』については先生と共に飯山にも行き蓮華寺にも泊まり込み、書中の地図も書いた」と述べています。これだけでは、総蔵が藤村と晩霞に同行したものか、別に三回目として藤村と二人で行ったものかは不明です。今後の研究を待ちたい。
 神津 猛
 藤村は大正6年の秋から8年の2月頃まで、フランスに滞在中にできた負債を無くすため、一枚2円で自らの旧詩からや良寛の短歌などの揮毫を行なった。残星は神津猛とともに佐久地方の希望者を募り配布集金を行なっている。現在、小諸周辺に残る藤村の書の掛軸はこの時のものであろう。「土屋子は心の美しかった人である。世にはこの土屋子よりも、もっと見識の高い人も多からうし、もっと才能のすぐれたも多からう。しかし、子のやうに心の美しい人はさう多く見出せそうもない。不幸にして子は人生の旅の半途に病を得て、惜しい生涯を終ったが、おそらく子としてはその生き得るかぎりを生きて行ったのだらう。」と藤村は『遺稿 裾野の雲』に序文を寄せている。藤村のよき理解者で物心両面で支援を続けた神津猛とともに、小説家島崎藤村を支えた一人であった。(芦)