藤村記念館だより10

公開日 2014年03月21日

最終更新日 2017年10月05日

<「千曲川いざよう波の岸ちかき宿」はどこでしょうか>

 「『千曲川旅情の歌』に出てくる『いざよう波の岸ちかき宿』はどこですか」と、 藤村記念館を訪れる方々から時々こんなご質問を受けることがあります。

 中棚鉱泉(左下)と水明楼(中央)

第一に考えられるのは、藤村ゆかりの温泉で明治32年4月に開かれた「中棚鉱泉」です。温泉好きな(というより持病のリュウマチ治療の湯治目的のため)小諸義塾校長木村熊二らが、明治31年5月から浴室建設の資金を募り明治32年から営業を始めたものです。現在は温泉旅館『中棚荘』ですが、明治33年4月にこの詩が発表された当時は浴室だけで、休憩したり宿泊したりする施設はなかったということです。

 次に考えられるのは、明治31年5月に中棚に建てられた小諸義塾校長木村熊二の書斎『水明楼』です。ここでは小諸義塾の「教員会」を開いたり、遠来の訪問者を接待したり宿泊させたりしています。中棚鉱泉で入浴した後、馬場裏の自宅への帰路に寄って一献かたむける、なんてことがあったかもしれません。千曲川からは近いし、坂の途中にあるので、『宿にのぼりつ濁り酒濁れる飲みてしばしなぐさむ』にはぴったりのところですが、『宿』と呼んで相応しいかどうか。

 湯ノ瀬ノ湯(明治26年)

 木村熊二日記の明治24年10月20日に出てくる「湯之瀬鉱泉」も『宿』として注目され興味深い。「湯の瀬の湯」は、昨年まで営業していた千曲川河畔の「湯の瀬温泉 吉野家」ではなく、対岸の小原地籍『畳岩』の近くにあった。明治26年発行の「小諸町一覧」裏面の小諸名所絵の中に「湯ノ瀬ノ湯」が載っている。それは二階建ての立派な施設であった。近くの人からの聞き取りでは、芸者置屋まであり盛っていたという。

残念ながら明治30年の大洪水で家屋を押し流され、その後は建てられなかった(小諸繁盛記)。

  明治32年4月に藤村が小諸義塾に赴任した時にはすでになかった。藤村は訪れることができなかったと思われるが、実は明治29年3月1日から4日まで小諸の木村熊二宅を訪れ滞在している。『旅人』藤村が、「旅情(小諸なる古城のほとり)」が創湯ノ瀬ノ湯跡(川岸の大岩畳岩付近に湯ノ瀬ノ湯があった。神社が同じ位置にある)られたと同じ早春に、この千曲川の『いざよう波』から本当に『近き宿』である、当時評判であった「湯ノ瀬ノ湯」を訪れていた可能性は十分にあります。

またある研究家は、馬場裏の住宅が旅人である藤村の『宿』であるとする解釈をしている。昔は千曲川の川音が住宅まで聞こえたとは言うが、『岸近き宿』とするには、徒歩で30分ほどかかり無理がある気がします。(芦)

参考文献;「校訂増補 木村熊二日記」,東京女子大学比較文化研究所編、2008,3.

    「私立小諸義塾沿革誌」、林 勇著、昭和41年8月、小諸義塾沿革誌刊行会.

     「小諸町一覧表」、明治26年10月、小諸市立図書館蔵.

       「小諸繁昌記」、明治36年、永井印刷所.