藤村記念館だより5

公開日 2014年03月21日

最終更新日 2017年10月05日

<島崎藤村と川村吾蔵>

 小諸市立藤村記念館内で常設展示している「島崎藤村像」は、臼田町出身の彫刻家川村吾蔵によって制作されたものです。昭和33年4月に藤村記念館が開館した折り、重要な展示物の一つとして故川村吾蔵の栞夫人から藤村記念館を建てた藤村会に寄贈されたものです。

  昭和11年にアルゼンチンで国際ペンクラブ大会が開催されました。藤村は日本ペンクラブ会長としてこの大会に出席し、帰路アメリカ合衆国に渡りニューヨーク・ワシントンなど各地を訪れました。ボストン美術館で敬愛する岡倉天心の業績を偲ぶ目的などでボストンにも滞在しました。この時川村吾蔵と会い、 胸像制作のための写真を撮影しています。吾蔵は日米関係悪化を機に日本に帰国した後、この時の写真をもとに「島崎藤村像」を制作しました。しかし、この胸像の完成は昭和18年10月で、藤村が亡くなった二ヶ月後でした。

 南米への旅については、「南米に使せし日(東京朝日新聞)」や「巡礼」などに詳しく書かれていますが、吾蔵との出会いについては触れられていません。藤村と吾蔵の交流については、吾蔵関係文書の解明などによる今後の研究が待たれます。                         

 川村吾蔵は、明治17(1884)年、長野県南佐久郡臼田村に生まれる。上田中学卒業後、義従兄弟丸山晩霞の影響から芸術家を志し明治37(1904)年に渡米(20歳)。ボストンやニューヨークの美術学校で学ぶ。明治43年渡仏、彫刻家フレデリック・W・マクモニスの助手となる(26歳)。明治45年、フランス国立美術学校、エコール・デ・ボザールに入学(28歳)。翌年特待生となる。特待生となったのは、同校で学んだ日本人の中では、後にも先にも川村吾蔵ただ一人であるという。かのロダンにその才能を見込まれ、共同制作者にと乞われたが断わったという逸話も残っている。

大正5(1916)年、ニューヨークに戻る。師マクモニスの共同制作者として『市民道徳』『美・哲学』『プリンストンの戦いの記念碑』『正義』などの大規模な公共彫刻を制作し高い評価を得る。また、理想的な乳牛像を追究・制作して全米に配布し、「牛の吾蔵」として広く知られる。昭和15(1940)年、37年ぶりに帰国(56歳)。日本では著名人の胸像を中心に制作を行なう。太平洋戦争終戦直後は進駐軍の通訳をしていたが、彫刻家「牛のGOZO」であることがアメリカ軍の知るところとなり、アメリカ海軍横須賀基地美術最高顧問として迎えられ、マッカーサー元帥始め米軍将校の胸像等の制作を行なう。昭和25(1950)年3月11日、胃癌のため逝去。享年65歳。

平成22年3月、佐久市田口の五稜郭公園内に遺族より臼田町(現佐久市)に寄贈された作品を展示する「川村吾蔵記念館」が開館される。  (芦)

 参考資料;「川村吾蔵記念館図録」,2010,佐久市教育委員会発行

     「藤村全集 第十三巻(南米に使せし日)、 第十四巻(巡禮、巡礼ノート)」,筑摩書房,昭和42年.