第19回小諸・藤村文学賞 一般の部最優秀賞

公開日 2013年08月06日

最終更新日 2013年08月06日

三途の(かわ)(べり)

中村美技子

 「んん!」「んん?」「んんん」

結婚四十年を過ぎた私たち夫婦の一文字会話である。他人には異星人がしゃべっているように聞こえるかもしれないが、意思の疎通は立派に成り立っている。通訳するとこうだ。「こりゃあなんだ!」「なんのこと?」「いや、なんでもない」

 すべての仕事から退き、ピアノと水彩画と町の役で忙しい夫と、和こもの作りの趣味を少しだけ仕事にして楽しんでいる私と、申し分のない穏やかな日々が続いている。ごちゃごちゃ言わなくても「ん」で分かりあえるこのお気楽な関係は、この上なく快適だ。どんなにハンサムで金持男が現れても、とてもじゃないが天秤には掛けられそうもない。普通に暮らせる幸せをしみじみと噛みしめているこの頃だ。

 しかし、あの時はこんな日々が訪れるなど夢にも思えなかった。明日、どうなるのか。それすら考えられない出来事が私たちにふりかかった。

 長期に在職していた県のトップと、旧態然とした県政に嫌気がさしたのだろう。冬季五輪の後に行われた知事選で、ほとんどの県民が現職の銀行頭取や会社のトップらが擁立したニューヒーローに期待と心を奪われていった。それは、県民の心がひとつになったような、ものすごい流れだった。

 結果はもちろん、トップの秘蔵っ子だった候補は惨敗。選挙が終わった途端、負け組に対して捜査の手が入った。

 そして、何日か後、日常は一変する。夫が選挙違反で逮捕された。手錠を掛けられ、頭にはジャンパー、腰紐を結わえられて連行される姿が、どのテレビチャンネルを回しても映し出されていた。

 夫が逮捕され、家は私一人で守らなければならなくなった。テレビでは職場の捜索が行われ、警察官が段ボール箱の戦利品を掲げ、意気ようようと引き挙げて行く様子が放映されていた。夫の名前、夫の写真、夫の机がクローズアップで流れる。殺人犯でもこんな扱いはされないだろうに、と思えるような容赦のない画面を、私は体を震わせながらみていた。

 テレビを見た後、今度は我が家の捜索に来るのではないか、と勘が働いた。選挙違反といっても、金品が介在したわけでもなく、暴力を振るったわけでもない。候補が同級生だったこともあって、電話で「よろしく頼む」と伝えたことが地位利用という罪のひとつになった。本人の無知と自覚のなさが原因で反省すべきことは多々あったが、それ以外の選挙活動は何もしていないのだから、家に証拠品なんてあろうはずがないのだけれど。

 後で考えると滑稽だが、どうしてそんなことを思いついたのか火事場の馬鹿力もどきで私がしたことが三つあった。

 離れには年老いた父が在宅していた。その年寄りに家族の警察沙汰を見せるのは忍びなかったので、市内のホテルに泊まってくれるよう頼んで家を空けてもらった。

 当時シバ犬を飼っていた。新聞社やテレビ局が押し寄せ、ワンワン吠えてご近所の迷惑になってはいけないと、友人宅にドッグフード付で預かってもらった。

 取材陣と顔を合わせたくなかったので、家から一歩も出なくてすむようスーパーに行って大量に食料を買い込み、庭にある鉢植えに溢れるくらいたっぷりと水やりをした。

 直感どおり、その夜、何人もの警察官が家宅捜索に訪れ、それこそ私の下着の一枚も、隅から隅まで調べつくした。

 結局のところ、「指摘されてびっくり」というモラルに欠ける夫の所持品に、選挙活動の証拠品なんてあろうはずがない。押収していったのは、以前に候補から来た私的な礼状ハガキ一枚と、年賀状用にワープロを打って作った住所録、A4のコピー用紙6~7枚を綴った紙表紙のファイル一冊のみ。重さにして合計百グラムあるかないかのものだった。

 ところが、その後の彼らの行動には本当にぴっくりさせられた。捜査官はおもむろに持参した段ボールで箱をふたつ組み立て始めた。そして、ガムテープを貼って仕上げた箱の片方に、カッターナイフや残ったガムテープの巻をいれ、もう一方に押収品を入れた。押収品ふた箱が完成したことになる。玄関では、新聞記者がカメラを構え、テレビのクルーも今か今かと待ち構えている。ふたりの捜査官がひとつずつ箱を抱えて玄関のドアの内側に立ち、先頭のひとりが十センチほどドアを開け報道陣に伝える。「まだ、まだ、だからね。次にドアを開けたら出ていくよ」と。

 彼らがさぞかし重いだろう箱を大事そうに抱えて外に出た瞬間、カメラのフラッシュが閃光を放ち、テレビカメラのライトが煌々と光り輝いた。箱に入っていたのは、梱包品とはがき一枚と住所録、中身がガラガラ踊っていたはずなのに。

 翌朝早く、私を心配して戻ってきた父は、何も聞かず黙々と家の前の道を掃いていた。そこには、記者やカメラマンが投げ捨てたと思われる煙草の吸殻が散乱していた。

 次の日の新聞には仰々しく箱を抱えて行く捜査官の写真が大きく紙面を飾り、テレビニュースで華々しく放送していた。世の中ってこういうものなのだろうかと、白けた気持ちで見つめていた。

 私はあまり政治には興味がない。世の中が平穏で、暮らしやすい環境を作ってくれる人がいいなあと投票するくらいなので、この度の選挙騒動は天地がひっくり返るほどびっくりした。明日の我が身が分からない。ただただ目の前のことにおろおろしながら対応するだけで、なにも考える余裕も時間もなかった。自分の人生にこんな日が来るとは、夢にも思っていなかった。

 それにしても、世の中の流れはすごいものがあった。それまでマンネリ化して慣れ合いになっていたトップと取り巻きに不満が募っていたのかもしれないが、ニューヒーローが現れた途端、ほとんどの県民がそちらへと傾いていった。それは恐ろしいほどの勢いで人々を巻き込み、反対意見を言おうものなら、卑怯者呼ばわりされ、支持者のチラシに名前がないものは、文化人にあらずとまで評されていた。私個人でいえば、当選した候補者の書いたものを読み、人間性にどうしても共感できないものがあったから夫の同級生に投票しただけのことだったが、負け組はあまりの批判の凄まじさに、身を縮め、陰に隠れてひっそりと暮らさざるを得なかった。その一方で、メディアはニューヒーローの一挙手一投足を取り上げ、熱に浮かされたように書き立てていった。

 夫の選挙違反と世間からの嘲り、潮流に翻弄されながら私はつくづく悟った。民主主義の世の中でも、ほとんどの人が白といった時に黒と言えば、見えない力の袋だたきにあう事があるのだと。かつて日本が戦争へと向かって行った時は、きっと今のような状況だったに違いないと。

 その後知人が信州人気質の本を出版する際、「知事選騒動の当事者としてどう思うか」と尋ねられた。答えたのはこうだ。「今の世の中は、メディアが人を裁き、政治を行うのだと感じた」。私の正直な感想なのである。

 夫は罰金三十万円を払って決着した。

 日本では、事件の状況が視聴者や読者の興味を引くか引かないかで扱いが変わってくる傾向があるような気がする。一万円盗んでも殺人を犯しても、罪の重さでメディアが動くのではなく、面白さで扱いを決めるような・・・そんな思いにとらわれた。

 騒動が一段落した後、「大変だったね」と多くの人が同情してくれたが、私はいつもこう答えていた。「悪いこともあったけれど、いいことも沢山あったから、プラスマイナスちょっといい方」。実際、こういう悪いことが起きると、敬遠していく人、寄り添ってくれる人、周りが本当によく見える。今までに我々がどのように人と関わってどのように生きてきたかをありありと見せてもらえる。五十代後半と前半、この時点で歩んできた人生を見せてもらった私たちは、ある意味とてもラッキーだったと思わずにはいられない。また、結果として私たち夫婦は、周りとも結構いい関係を築いてきたらしく、騒動の最中は自分のことのように心配してくれ、収まると何事もなかったように以前の付き合いを続けてくれる知人や友人が数多く存在した。ぶれない仲間は本当にありがたい。

 あれから十年余りの歳月が流れた。怒涛のように押し寄せた流れはいつの間にか静まり、今は普通の県政が粛々と遂行されている。ニューヒーローに翻弄されたあの騒ぎはなんだったのだろうかと、今は不思議な気がしている。

 冬晴れの昼下がり、こたつに入って本を読んでいたら、眩しい日差しに目をこすりながら夫が言った。「俺が先に逝ったらさ、三途の川縁にゴザを敷いて、そこに座ってお前の来るのを待っていてやるからな。そして聞くんだ、来る人来る人に。『うちの女房はどうしていますか。まだこっちへ来そうもありませんか』ってさ」。急に何を言い出すのやらと思ったが、この先いつか必ず訪れる現実を広げられたような気がして、少し動揺してしまった。寂しいような嬉しいような照れくさいような、様々な気持ちが入り乱れる。しかし、まずいことに、こういう時の私は自分の胸の内をさらけ出すことができず、素直になれない。「あはは、『若い男と毎日ルンルン暮らしています』って答えるさ」。「そんな薄情な奴は待ってなんかやるもんか。やってきた若い姉ちゃんと腕を組んで川を渡っちゃう」と夫が言う。「こんな爺なんか誰も相手にしてくれないよ」と応酬する私。結局のところお笑い移行で、話は尻切れトンボで終わってしまった。本心を言えばこんなに嬉しかった事はなかったのに。

 地球上には天文学的数字の男があまたいる中、どうして夫を選んでしまったのだろうか。神がかり的な不思議を感じてしまう。生まれも育ちも全く異なる男と女が一緒に暮らし始めて四十年余り。さあそこでだ。現世での夫婦を全うしてしまったら、次はどうしようか。

 私は、もう一回ぐらい夫婦をしてもいいかなと思っているけど、そっちはどうする?

(長野県長野市)

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