第13回小諸・藤村文学賞 一般の部最優秀賞

公開日 2013年12月02日

最終更新日 2013年12月02日

 一般の部最優秀賞作品を公開します。じっくり読んでみてください。

そして、小諸・藤村文学賞に応募していただければ幸いです。


九十三歳差の友情

新潟県新潟市

武 仲 浩 美

祖母がつじつまの合わないことを言い始め、しだいに時間や場所の観念を失い、行動から目が離せなくなって二十年以上。四半世紀もの間、母は姑の介護を続けてきた。

祖母は気性の激しいひとで、昔は人並み以上に嫁いびりをしたものだったが、今では母に頼りきっている。母でなければ食事をしない。すこし離れると「おかあさあーん、おかあさあーん」と、用事もないのに不安そうに呼ぶ。そうした姿は、六歳まで自分の記憶をさかのぼらせ、充分に得ることのできなかった愛情にすがりついているように、わたしには見えるのだ。

祖母は六歳で実母を亡くすと、すぐに住み込みで子守り奉公に出され、その後は紡績工場などを転々としたらしい。頼れる身寄りもろくにない少女は、大正から昭和の底辺で、誰よりも気丈にならなければ、生き抜いてこられなかったのだろう。

「それこそ何百人もおらみてな女工が居ての。身体の弱いもんは胸病んで治らねのさ」と、いつか紡績工場の話をしてくれたことがあった。そこでおぼえたという物哀しい旋律の歌を祖母は、惚けてからも時々、楽しそうな顔で口ずさんでいる。

「母親のことは憶えていねども、父親は実家から勘当されて、働きもしねで、ボロ着て、襖やら障子やらに大和仮名を書き付けていたひとだった。年季が明けておらが紡績から戻ると、じきに死んでしょもた」というから、今でいう二ートみたいな父親だったのかもしれない。

生活力のない父親が反面教師になったか、「学校へ行ったことなくても読み書きできるよう頑張った」のが祖母の自慢であり、人一倍働くことを美徳としていた。

あるときなど、野良仕事をたいそうな勢いでこなしながら、「ええい!こうせば、いいあんだ」と、嫁いだばかりで作業に慣れていない、母の頭を小鎌の柄でこづいたという。どうせ教えるなら、なにもこづかなくてもよさそうなものだが、そういう性格なのだ。

二十年前、祖母の痴呆が始まった当初は、家中がささくれ立ったものだった。近所のお宅に勝手に上がりこみ、あることないことを吹聴したり、よそさま

の庭木を勝手に剪定したり。およそ非常識なことも、一見、態度も話も達者な人間がやるものだから、誰も認知症とは思わない。近所から苦情が入るたび祖母に注意をするのだが、苦言を呈したところで、この性格だ。惚けようが惚けまいが素直に言うことを聞くはずもなく、もとより無効なのだ。行き場のないストレスが家の中に充満した。

ところが昨今の祖母はどうだろう。元気で寝たきり。南東向きの特等席で日がなまどろみ、気分がよければ「お世話になりますね」「ごっつおうさまでした」と、ご丁寧に合掌までする。

わたしたちの地方では、死ぬ三日前に良い人間になればどんなひとでも仏様、と言われている。最期の締めくくりいかんで、人生大半の悪行もチャラになるのだ。わたしたちは、「まさにその通りだ」と笑い合った。抗いようのない歳をとるということ、そして弱くなっていくひとを笑うのは不謹慎だが、これまでの祖母を少しでもチャラにできそうなことについて、みんな、なにか嬉しかったのではなかっただろうか。

そんな中、妹に女の子が産まれ、実家で日中あずかることになった。母はさらに忙しくなったわけだが、初孫に実家の空気は一気にはなやいだ。

赤ん坊が育つのは早い。あっという間に寝返りを打つようになり、ハイハイから伝い歩き。彼女は、かなりおしゃまな天性で、言葉を覚えるのも速かった。なにがどうなっているのやら、幼児のくせにそこはかとなく風流な子で、空をゆく雲を眺めて一人遊びをし、自分で探し当てた風の通り道で昼寝をし、三輪車や冷蔵庫に名前を付け、家庭菜園の胡瓜やトマトのおやつを頬張りながら、大きくなっていった。

そして、ろくに歩けないうちから、母の真似をして祖母の面倒を見たがった。お手伝いのつもりが、下の世話をする母の横から、自分の離乳食や紙おむつを「どうじょ」と差し出す甲斐甲斐しさに、わたしたちは笑い和んだ。

姪が祖母にちょっかいを出すと、「めごちやん(可愛い子)だねえ」と祖母も喜ぶ。姪は祖母の頭の中で、わたしになり、妹になり、遠くへ嫁いだ自分の娘になった。

ある日、いつものように、姪は祖母の部屋へ遊びに入った。姪にしてみればよい遊び仲間なのだろうが、なにせ相手は認知症、気分の照り降りをダイレクトに表わす。

その日はたまたま降りの気分だったらしく、そばへ行った姪を強く払いのけた。姪はゴロンと転がり、仏壇の木魚を後ろ頭でポクンと鳴らした。あ、泣くかな。居合わせた家族は、みんなそう思った。しかし、姪は泣くどころか、憤まん満タンの顔で枕元まで戻ると、祖母のおでこをペタンと叩いたのである。祖母は「痛たたた、なにするの!」と激怒、お返しを見舞おうとする。あわてて二人を引き離してドローにしたものの、予想外の展開に、わたしたちは理解したのだった。なんとまあ、よく似た二人だ、と。

「嫌いな煮干しをかじり、流産の危機を懸命に乗り越え、やっと、やっと、産んだのに。よりによって、ばあちゃんに似るとはねえ」

落胆する妹を、「みんなでうまいこと育児・教育をすれば、きっと良い子に育つから大丈夫だよ」と慰めてはみたものの、祖母とのファイトから引っぺがされても手足をパタパタさせる戦闘モードの姪は、こう言ってしまっては身も蓋もないが、あまりにも祖母のミニチュアだった。

また、ある日、祖母は相当の下痢をした。高齢なだけに命取りにならないとも限らない。いつも往診してもらっているドクターにあわてて連絡をして、なんの気なしに母が祖母の毛布を直したところ、バナナの皮が二本分出てきた。ぴんときた母が、「ねんねばあにバナナあげた?」と姪に訊くと、彼女は得意げに鼻を膨らませてこっくりうなずいた。

そのころの姪は、水槽の金魚に餌をやる遊びにはまっていて、餌を与えすぎて金魚を何匹も死なせた。

「ばばも、うっかり金魚にされるところだったなあ」と父は笑った。「この子、やってくれるわね」と娘たちも笑った。笑えないのは、日ごろから祖母の体調に責任を感じている母で、気の毒に、目の下に隈ができていた。

今年の一月十五日に祖母は九十七歳、姪は二月三日で四歳を迎えた。九十三歳差の友情は、ますます健在だ。

ゆっくりと小さくなっていくひと。日に日に大きくなっていくひと。最近は後者が優勢となり、祖母が「自分の家へ帰りたい」と言い出すと、「あのね、ここが、ねんねばあちゃんのお家よ」などと教えたりしている。遠くなった祖母の耳元で誰かがつい大きな声を出せば、「シーツ!静かにね、優しくね」「ねんねばあちゃんが怒られると、たまちゃんはなんだか悲しくなるんだよ」などと、いさめさえする。

そんな二人の姿に、家族はハッとさせられ、あらためて介護と向き合い直す。

チャラにしたい。許したい。祖母のために。自分のために。家族なのだから。そう考えていても、割り切れないものを完全に払拭できるかといえば、たぶん、わたしたちの誰もが自信なかっただろう。

やるべき介護を義務的にやっていたとしても、それ以上、つまり愛情をもってやれていたのかと問われれば、とてもそうとばかりは答えられなかった。そうしたわだかまりが、自已嫌悪を呼ぶのか、ずっとどこか閉ざされたように苦しかった。

姪の存在がなければ、わたしたち家族の介護の姿勢は、それよりも、もっと殺伐としたものになっていたに違いない。

父を見下し、母をいじめ、叔父の労災補償金を巻き上げて遣い、わたしが中学生になってもなお色恋沙汰で騒ぎ、身勝手に生きてきた祖母ではあるが、姪とのやりとりを眺めていると、やはり、よい最期を迎えさせてやりたいと思ってしまうのは何故なのだろう。

人生を、行脚の旅に例えたひとがいる。今生をぎりぎりですれ違った祖母と姪。やがて祖母がいなくなっても、喧嘩したり庇ったりした祖母との日々は、姪の記憶や心に残ってくれるだろうか。

九十三歳差の友情が、これからの姪の優しさや強さ、豊かな感受性となってくれることを、わたしは信じたい。そして、祖母のかつてを許したい。

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