小諸出身の洋画家 小山敬三

公開日 2014年03月09日

最終更新日 2014年03月09日

小山敬三 明治30年、小諸町字荒町(現在の小諸市)に、父小山久左衛門正友、母梅路の三男として生まれる。
 大正4年、上田中学校を卒業し、慶応義塾大学予科に入学するため上京。幼いころからの夢であった画家になることを決心し、以前より反対していた父と三日三晩話し合い許しをもらう。
 翌大正5年には慶応義塾大学予科を中退し、川端画学校で藤島武二画伯に師事。この時、同じ芸術家になるのならと、父正友から親交のあった島崎藤村にアドバイスを求めることを勧めれ、敬三は当時フランスから帰国し、東京芝に住んでいた島崎藤村を訪ね、藤村からフランスへの留学を勧められる。
 大正9年、23歳のときにフランスへ留学。デッサンの勉強のため「シャルル・ゲラン」のアトリエであるアカデミー・デ・コラロッシに通う。
 大正11年、フランスの重要な展示会「サロン・ドートンヌ」で3点が入選。その後も複数点の入選を続け、大正15年には会員に推挙される。
 大正12年、マリー・ルイズ・ド・モントルイユと結婚。創作活動の傍ら、イタリア・スペインなどで絵画研究を続ける。特にスペインで見たグレコの作品からは大きな影響を受ける。
 昭和2年、帰国を前にパリのバレンヌ画廊で個展を開く。フランス政府からの買上げもなどあり、大変盛会となる。
 昭和3年、フランスから帰国。帰国前にパリのアール・コンタンポラン画廊で個展を開く契約をしていたため、作品制作のため日本国内を旅する。その後、1年ほどを小諸で過ごし、昭和4年に神奈川県茅ヶ崎市にアトリエを構える。
 昭和8年、二科会に入会。フランスのサロン・ドートンヌ審査員に委嘱される。翌昭和9年には中国へ写生旅行に出かけ、北京飯店や天津の仏蘭西租界で個展を開き、好評を得る。
 昭和11年、二科会を脱会し、石井柏亭、有島生馬、安井曽太郎ら8人と一水会を創設し、第1回展を東京の高島屋で開く。
 昭和12年、小山敬三作品保有会のための作品制作のため2度目の渡仏。
 第二次大戦が激しくなった頃小諸へ疎開し半農半画の生活を送る。信州は戦災を逃れる格好の地であり、石井柏亭、有島生馬、奥村土牛ら知名の芸術家が多く疎開し、後に信州美術会を結成する要因となる。
 終戦を小諸で迎え、軽井沢に別荘兼アトリエを手に入れたことから、毎年6月には茅ケ崎から移り、約3ヶ月を過ごした。アトリエからは浅間山がよく見え、後の「浅間山連作」を生み出す要因ともなる。この頃に蓉子を養女に迎え、肖像画のモデルとした作品も残されている。
 昭和33年、社団法人日展の評議員となる。
 昭和34年、「初夏白鷺城」並びに「白鷺城」に対し、日本芸術院賞を受賞。翌年には日本芸術員会員、日展理事となる。
 昭和45年、文化功労者として顕彰される。翌年には小諸市名誉市民となる。
 昭和50年、日本橋三越で画業60年展を開催。文化勲章を受章。小山敬三美術館を建設し、代表作品31点とともに小諸市へ寄贈。建物は建築界で文化勲章を受章した村野藤吾氏の設計により、建物、絵画、眺望の集合美をかなえた美術館となる。 
 昭和51年、茅ヶ崎市名誉市民となる。
 昭和55年には、茅ヶ崎市の文化会館に茅ヶ崎の有名な「浜降り祭」をテーマにした大緞帳が完成。
 昭和56年、妻マリーが逝去。翌昭和57年には新高輪プリンスホテルの大壁画「紅浅間」を完成させる。また、長野県から県民文化会館の大ホールの緞帳作成依頼があり、翌昭和58年に「紅浅間」の大緞帳が完成。下絵の指導や京都西陣織りの川島工場まで出かけて指導する。また、この年は、信濃毎日新聞社からの依頼で、完成したばかりの県民文化会館で自選展を開催。故郷長野県で初の自選展となる。
 昭和60年、私財2億円を寄付して社団法人「小山敬三美術振興財団」を設立。小山敬三美術賞の授与や油彩画の修復技術家の留学奨励などを行う。(財団は平成18年に解散)
 昭和62年、神奈川県茅ケ崎市で逝去。享年89歳。

アトリエ

 茅ヶ崎のアトリエと住居の一部は、現在小諸市の小山敬三美術館横に移築され、小山敬三記念館となっている。

 

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