文豪 島崎藤村

公開日 2013年08月29日

最終更新日 2013年08月29日

島崎藤村 写真

 明治5年、木曽の馬籠(現在の中津川市馬籠)に、7人兄弟の四男として生まれる。本名は島崎春樹。明治14年、10才のときに上京し泰明小学校に入学。明治20年に明治学院普通部本科(現在の明治学院大学)に入学、同24年に卒業した。在学中に恩師の木村熊二によって洗礼を受けキリスト教に入信。

 明治25年木村熊二夫妻の創設した明治女学校の教師として赴任するが、教え子である佐藤輔子への恋愛感情に苦しみ、翌26年には明治女学校を退職し、教会も脱し関西への旅に出る。

 藤村と文学との関係は、巌本善治主宰の「女学雑誌」の編集を手伝い、訳文などを掲載し、詩人・評論家の北村透谷と親交が始まったこの頃から深くなり、明治26年には北村透谷らとともに、雑誌「文学界」の創刊に参加した。

 明治29年、25歳の時に仙台の東北学院に赴任。翌年帰京した後に第一詩集である「若菜集」を刊行、その後も「一葉舟」「夏草」「落梅集」などの詩集を刊行し、浪漫派詩人としての地位を確立していった。一方で散文への移行も着実に進められ、「若菜集」刊行の年には小説「うたたね」が発表されている。

 明治32年4月、恩師であり小諸義塾の塾長であった木村熊二に招かれ、長野県小諸町の小諸義塾に国語と英語の教師として赴任。同月に巖本善治の媒酌により函館の網問屋の三女・冬子と結婚。

明治33年に『旅情』(小諸なる古城のほとり)を文芸雑誌「明星」創刊号に発表。この年に長女緑が生まれ、「物を見る稽古」のために『千曲川のスケッチ』を書き記し始めたのもこの頃である。小諸在住時の藤村は、自然や生活の様子などを新鮮な感覚でとらえ、「旧主人」「藁草履」「爺」「老嬢」「水彩画家」「椰子の葉陰」などの優れた短編小説を残している。

 明治35年には次女孝子、同37年には三女縫子が生まれる。この頃から本格的に小説へと移行し、長編小説「破戒」の執筆に取りかかる。
※小諸時代の藤村(藤村記念館ホームページへ)

明治38年3月小諸義塾を退職。4月29日には書きかけの原稿を持って上京、翌39年に長編小説「破戒」が自費出版される。「破戒」の成功は、詩作から小説家への転向を決定させた。続いて発表された「春」や「家」などに至り写実的方法は定着した。

 しかし、上京からわずか1年ほどの間に、麻疹などにより小諸で生まれた3人の娘を相次いで亡くし、明治43年には妻冬子も四女出産後に失うという家庭的不幸に見舞われる。

 その後、家事手伝いとして来ていた次兄の次女である姪・こま子との愛の葛藤に苦しみ、また文学上の行き詰まりを打開し新境地を開くために、大正2年にフランスに渡航。大正5年に帰国すると、大正7年にこま子との関係を精算するために綴った長編小説「新生」を発表、自伝的私小説の新領域を開拓する問題作となった。

 以後「桜の実の熟す時」「エトランゼ」「嵐」雑誌「処女地」などを次々に刊行する。

また、一方で童話集「幼きものに」「ふるさと」「をさなきもの」などもこの頃に刊行している。

昭和2年3月には信濃協会と旧小諸義塾同窓会が発起し、多くの協力者の賛意により懐古園内に藤村詩碑が建設された。設計は有島生馬の案で、藤村自筆の「千曲川旅情のうた」をもとに、高村豊周の鋳造したの青銅パネルが埋め込まれた。

藤村碑

 昭和3年、加藤静子と再婚。父正樹をモデルとした大作「夜明け前」に着手。昭和10年に完成となる。また、この年に日本ペンクラブの設立にも努め、初代会長となった。

昭和16年、神奈川県大磯町に移住。マルセイユの美術館で見たシャバンヌの絵画「東方の門」に発想を得て、「夜明け前」の続編である「東方の門」に着手。翌18年8月に脳溢血のため大磯の自宅で死去。享年72才。「東方の門」は未完の遺作となった。

なお、小諸出身の洋画家小山敬三は、藤村の女子学習舎での教え子小山喜代野の弟で、大正6年頃から親交があり、藤村はその画才に早くから注目し、助言と激励を与えていた。

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